寄り道 上州・沼田

201893日(月)

猛烈な暑さと自然災害に苦しめられた今年の夏もやっとその勢いを弱めたようである。

青春18きっぷが1回分残っていたので日帰りで沼田へ行ってみることにした。

沼田・・・・豊臣秀吉の北条征伐の後、真田信之真田昌幸の長男・幸村の兄)が沼田城主となり沼田を支配したことでもう一つの真田の里といわれている。

さて、浦和から高崎線上越線を乗り継いで沼田へ。全く事前の準備をしていなかったので

沼田駅の待合室にあるパンフレットがありがたい。特に「天空の城下町 真田の里沼田 城下町散策MAP with 沼田女子高校」がいい。早速、女子高生手作りのMAPを片手に城下町を散策することにした。

沼田駅前には、天狗の像があり、六文銭の家紋と共に「真田の里 上州沼田」と書かれたのぼりがはためいている。月曜日の早朝とあって静かな空気が漂っている。

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駅前通りを歩き清水町の交差点で左折、まずは「榛名神社」で今日1日の安全を祈願。

境内には「心洗岩」なるものが置かれている。

榛名神社、御祭神は埴安姫命(はにやすひんめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざね)。

由緒書きには、「鎌倉時代榛名山御師の活動により榛名神社の信仰が広められた。(中略)戦国時代となり、沼田万鬼顕泰は武尊様の社地にあらたに倉内城を建てること を決め享禄二年(一五二九年)武尊様、榛名様、天神様を合せ祀り、現在の地に 社殿を建立、そして元和元年(一六一五)真田信之公が改築、現在に至る。(後略)」とある。

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清水町の交差点まで戻り、「滝坂」と名付けられた坂を上る。この坂は急で息が切れ、汗が噴き出す。とどめは、アーケードになっている急階段である。上り切るとしばらく休まないと歩きだせない。

休憩の後、左へ歩くと真田城址である。入り口には冠木門があり「日本の歴史公園百選 沼田」と書かれた碑が立っている。

 

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沼田城

沼田城は、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川は約70mの崖となっており、典型的な崖城でもある。

沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。天正十八年(1590)秀吉の北条征伐後沼田城は、真田昌幸に与えられ長男の真田信幸の支配城となった。

城址公園には、鐘楼、信之・小松姫の石像、天守跡の碑、本丸堀跡などがある。

 

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ここからの眺めは素晴らしく、名胡桃方面や日本百名山の一つ谷川岳、三峰山が見渡せる。

名胡桃城は、沼田城の有力な支城で真田の家臣・鈴木重則が城代であったが北条の家臣・猪俣邦憲の姦計により北条に占領された。その後信幸が沼田城を支配するとともに廃城となった。

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沼田城は、利根沼田の台地上に位置するが河岸段丘とは「平坦な部分と崖が交互に現れる地形の事で利根沼田の河岸段丘は日本一の美しさを誇る。この特殊な地形に目をつけた真田氏によって「天空の城下町」は生まれた。」~城下町散策MAP with 沼田女子高校より~

沼田市HPの写真を見れば、確かに「天空の城下町」である。

 

f:id:tyoyxf1:20180920153837j:plain(沼田市HPより)

ここで、真田信幸(信之)について少し。

昌幸の長男で幼名は源三郎。文禄三年(1594)、従四位下・伊豆守に叙任される。

信之は、信濃の小国でありながら知略を尽くして存在感を示した知将・父昌幸や大坂の陣で華々しい活躍を見せ「真田日本一の兵」と称賛された弟・幸村(信繁)ほど語られてはいない。

しかし、二度の上田合戦や大坂の陣で徳川を苦しめた「徳川の天敵」ともいえる真田家を守り抜いたその器量は「名将」にして「名君」と言えるであろう。

戦上手は、昌幸や幸村に引けを取らない。第一次上田合戦では、昌幸に従い大いに勝利に貢献した。家康は、信幸の才能を高く評価し徳川四天王の一人・本田忠勝の娘「稲姫、(後の小松殿)」を養女としたのち信幸に嫁がせた。

1600年、上杉征伐に向かう途中、石田三成の決起を知った昌幸と幸村は大坂方に味方することを決意するが、戦乱の世を終わらせるのは、家康しかいないと信じて疑わなかった信幸は、犬伏の陣で昌幸、幸村と袂を分かち家康に従う。

「親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのもあながち悪う(あしゅう)はござるりますまい。上田が立ち行かなければ沼田が・・・・」(幸村)「沼田が立ち行かなくなった時は上田があるという事か」(信幸)~NHKドラマ真田太平記の名場面が目に浮かぶ。~

関ケ原」の後、義父・本田忠勝と共に昌幸、幸村の助命嘆願を続けると共に徳川家への忠誠の意思を示すため「幸」の字を「之」と改め「信之」とした。「大坂の陣」後、家康により沼田を安堵されるが、秀忠により松代への国替えを命じられる。

その後、信幸はひたすら真田家を守り、徳川三代将軍・家光に、「豆州(伊豆守)は、天下の宝よ」と言わしめ、諸将からは、老いてなお「信濃の獅子」と評された。

徳川頼宣(よりのぶ)」(徳川八代将軍・吉宗の祖父で紀州徳川家の祖とされる人物)は、信之を尊敬し、たびたび自邸に信之を招き、武辺話を聞いたという逸話が残っている。

信之は、九十三歳の長寿を全うし、辞世の句、「何事も移れば変わる世の中を夢なりけりと思いざりけり」を残して世を去った。(時代は移り世の中は変わり愛する人たちもいなくなってしまった。この世は夢であったのだろうか。とでも読み解けばいいのだろうか)信之の死を家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、出家する者が相次いだという逸話は、信之が家臣や領民にいかに慕われた名君であったかうを物語っている。

また晩年、信之はしばしば幕府に隠居を願い出ているがその度に慰留され、91歳になるまで隠居できなかった。隠居にあたり時の将軍・家綱は信之を「天下の飾り」と表現したといわれている。

公園内の観光案内所で「沼田城の古地図」と「切り絵・沼田かるた」を購入し、正覚寺へ。

正覚寺には信之の正室・小松殿の墓がある。

大蓮院殿(小松殿)の墓は総高271センチの宝篋印塔で、塔身に「阿弥陀三尊(梵字) 大蓮院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘があり、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表し、沼田市重要文化財に指定されている。

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小松殿について少し。

真田信幸(信之)の正室・小松殿は、天正元年(1573)に徳川四天王の筆頭・本田忠勝第一子(長女)として生まれる。幼名は稲姫(いなひめ)

第一次上田合戦で徳川勢7000の大軍をわずか1200の手勢で撃退した真田父子(昌幸、信幸、幸村)の名は、一躍天下に轟くことになる。

真田の軍略を恐れた本田忠勝は真田家の取り込みを図り、娘・稲姫を家康の養女として真田家の長男・信幸に嫁がせた。(孫・松代藩三代藩主・真田幸道の由緒書きでは、小松殿は徳川秀忠の養女とされているのだが・・・・)稲姫(小松殿)は14歳、信幸は24歳であった。

1600年上杉征伐に向かう途中、下野(栃木県佐野市)の犬伏の陣に石田三成の密書が昌幸に届く。親子会議の結果、昌幸、幸村は西軍へ、信幸は東軍へ与することになる。

昌幸と幸村は上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔見たいと、夜半に沼田城に使者を送り入城を申し入れたが、城を守る小松殿は自ら武装して出迎え「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中に入れることはできませぬ。」と入城を拒否。昌幸は、あわよくば、沼田城を占拠しようとも考えていたとされるが「さすがは本多の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん。」と、城に入る事を諦め、近くの正覚寺で一泊した。
翌日、そこに小松殿が子供を連れて訪れ、祖父と孫の対面を果たせたと言う。

関ケ原の合戦後、小松殿は九度山に配流された義父・昌幸と義弟・幸村に、自費から仕送りをする一方、真田家の倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い。

また、小松姫は、徳川家康徳川秀忠に対して直に意見をする程の才色兼備の女性だったと伝えられている。また、小松姫の遺品の中には『史記』の「鴻門の会」の場面を描いた枕屏風があるが、こうした点からも「男勝り」と評されている所以であろう。

小松殿は元和六年(1620)二月二十四日、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなった。享年四十八歳。

遺骸は沼田城近くの正覚寺に運ばれて、荼毘にふされ埋葬された。

信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。

戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺上田市芳泉寺の三つの寺に分骨されている。

正覚寺を出て、沼田市街の中心に位置する辺りに天狗プラザという所があり、中には沼田まつりで担がれる長さ4.3mm幅2.3m、花の高さ2.9mの天狗面が展示されている。

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天狗プラザから歩くこと約10分、沼田藩第二代藩主真田信吉の墓がある天桂寺に着いた。天桂寺の傍らの水路にきれいな水が流れている。城堀川はかつて沼田の町の生命線だった。天桂寺の水路お石垣の一部は当時のまま、残っている。

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ちょうど12時を過ぎたので「城下町散策MAP」に書かれている「姫本」という店で「だんご汁」を昼食にいただいた。

まだまだ訪れたいところはあるが、今日は日帰りなのでここまで。

割田屋さんで沼田名物みそ饅頭を土産に購入。

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榛名神社」で願解き(がんほどき)をし、御朱印をもらって帰宅。