奥の細道 一人歩き 8 幸手宿-栗橋宿
7日目(2019年1月22日(火))幸手宿-栗橋宿
東部日光線・幸手高野台駅から日光街道(国道4号線)に戻り先へ進む。上高野小入口の信号から旧道に入る。しばらく行くと幸手市南公民館の玄関先に上高野村道路元票が置かれている。彫られている文字が読めないので公民館の方に聞いてみたが「勉強不足でごめんなさい。」という事だった。
説明版によれば、元は御成街道沿いにあったものだが平成に入って旧日光街道のこの場所に移転したとのこと。
道路元票から15分ぐらい歩くと「日光道中・日光御成道合流地点」の説明版が立っている。
日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね。千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光街道に合流します。川口・鳩ケ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行きかったと思われます。」幸手市教育委員会・説明版より
当時は、随分賑わったことだろう。
すぐ先の道の傍らには石仏や石塔が集められている。
すぐ先には「太子堂」がある。中には聖徳太子が祀られているのだろう。
その先には「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の途中に戦勝を祈願した寺だそうだ。
しばらく行くと東部日光線に出会い、踏切を越えた志手橋交差点で再び国道4号線に合流する。信号の先に「神明神社」がある。ここは、伊勢神宮の分霊を祀った神社で境内には「螺不動(たにしふどう)」がある。螺を描いた絵馬を奉納して祈願すれば眼病に霊験あらたかだそうだ。参道の入口には高札場があったそうだが今はその跡は見受けられない。
このあたりが幸手宿の入口であろう。
第6宿 幸手宿 (杉戸宿より一里二十五町(約5.8キロ)
本陣1、旅籠二十七軒、宿内家数九百六十二軒、宿内人口三千九百三十七人
古くは田宮町とも呼ばれた幸手の中心部は、江戸幕府による街道整備の結果、日光道中6番目の宿場である幸手宿として発展した。徳川将軍が日光社参で通る日光御成道が上高野村で合流、また宿内で日光社参の迂回路である日光御廻り道、更に外国府村で筑波道が分岐し、陸上交通の要衝として大いに栄えた。(日光街道・幸手宿 説明版より)
神明神社のすぐ先には「明治天皇行在所跡碑が説明版と共に立っている。
中1丁目(南)の交差点の右手のポケットパークに「問屋場跡」の説明版があり、右手の「うなぎ義語屋」は「本陣・知久家跡」である。
本陣跡から10分ばかり先を左手に入ると「聖福寺」である。聖福寺は、浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来である。徳川三代将軍家光が日光社参の時に休憩所として使用した。また、天皇の例幣使や歴代将軍の休憩所となった。
- 幸手を行くかば栗橋の関 - 蕉
- 松風をはさみ揃ゆる寺の門 - 良
と刻まれている。
奥の細道の旅を終えた芭蕉は4年後の元禄六年九月十三日に江戸・深川の芭蕉庵で句会を催したときにみちのくの旅を想い曽良と共に詠んだ句だということである。
(山門の勅使門や句碑の写真を撮ったのだが保存されていない。消去しまったのかもしれない。残念!! どうも撮影した写真の取扱いが良くない。)
さて、街道に戻ったすぐ先が「幸手の一里塚」があった所で「幸手の一里塚跡」の説明版が立っている。江戸・日本橋から12番目(十二里目)の一里塚である。
街道はその先で国道4号線と分かれ旧道に入り、内国府間(うちごうま)交差点で再び国道4線に合流する。内国府間交差点から30分ばかり行くと権現堂川の堤が散策コースになっていて水仙の群生地には水仙が咲き乱れていた。権現堂堤は、江戸を洪水から守るために寛永十八年(1641)に築堤されたのだそうだ。
権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が立っている。
明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄ったことから命名された「行幸橋」を渡りきると左手が旧道である。しばらく行くと「筑波道追分道標」が置かれている。道標には「左・日光道」「右・つくば道」「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。道標は、安政四年(1775)の建立。(幸手市教育委員会の説明版より)
追分道標から5分程歩くと「雷電社湯殿社」があり境内には馬頭観音、青面金剛像庚申塔、如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。ここは、内国府間村の鎮守である。
ここから先は国道4号線の下道を進み小さな円形のトンネルをくぐることになるがこのトンネルの辺りが幸手市と久喜市の境である。
しばらく行くと左手に一里塚の説明版が立っている。江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」である。
国道4号線は、やがて東北新幹線の高架をくぐり、川通神社の所で旧道は国道と分かれる。
河通神社の鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。境内の常夜灯は文化十一年(1814)の建立だそうだ。
5分ばかり先には「会津見送り稲荷」がある。久喜市のHPによるとこの稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だそうで、以下のような記載がある。
「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます。
また、道が通行できず、茶店でお茶をご馳走になっている時に、大事な物を忘れてきたことに気づき、そのために死を決意した際、この老人が現われ、藩士に死を思い止らせたともいわれています。後になってこの老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされています。」(久喜市HPより)
稲荷社から15分ばかり歩いて左に入ると「深廣寺」がある。境内には「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ3.5メートルの六角名号塔が21基並んでいる。
旧道に戻り、先の栗橋駅入口の交差点から栗橋駅hへ、JR宇都宮線で帰宅。
街道脇には悲劇のヒーロー源義経の愛妾・静御前の墓への参道の碑が置かれている。