奥の細道一人歩き 12 飯塚宿-「室の八嶋」-壬生
11日目(2019年2月7日(木))飯塚宿ー室の八嶋-壬生
さて、両毛線・思川駅から冬枯れの田園風景を左右に見ながら壬生道へ。
壬生道へ戻ると飯塚宿であるが今は宿場町の面影はない。右手に七面大明神の祠をみてしばらく行くと「飯塚の一里塚」がある。江戸・日本橋から二十二番目の一里塚である。
「飯塚一里塚(史跡)「一里塚」は江戸幕府によって一里(約四キロメートル)ごとに築かれ、榎などを植えて旅行者の目安とされた。「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
この街道は、日光東昭宮参詣を中心に開かれた街道で将軍や幕府の使者、日光輪王寺門跡などの用人も多く利用した。特に東照宮例祭が催された四月中には通行人でにぎわった。
明治に入り、鉄道の普及にともなって、交通手段も変わり、「一里塚」の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約四キロメートル南へ進んだ地点には、「喜沢一里塚」も残されている。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。」(説明版)
少し歩くと「天平の丘公園」があり、「伝・紫式部の墓」などがある。
公園の中の「防人街道」と呼ばれる小道があり、万葉集の歌が書かれた木札が木にとめられている。
「防人街道について・防人とは古代、唐、新羅などの備えとして九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士がその任につきました。防人街道は「下国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で万葉集の中に、下野の防人が詠んだ「松の木の竝(な)みたる見れば家人のわれを見送るとたたりしもころ」の風景に似ているところから、名付けられました。環境庁・栃木県」(説明版)
紫式部の墓については、姿川沿いにあった五輪塔がこの地に移された時、この付近は「紫」という地名であることから源氏物語の作者である紫式部の墓といわれるようになったと思われる。(環境庁・栃木県の説明版より)
つまり、紫式部の墓ではないということのようだ。
木札に書かれている万葉集をいくつか。
- 筑波嶺(つくはね)の、さ百合の花の、夜床(ゆとこ)にも、愛(かな)しけ妹(いも)ぞ、昼も愛(かな)しけ -
防人として旅立つ男が残した妻への思いを歌った歌
- 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず -
防人として夫を送り出す妻の思いを歌った歌
- 今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御盾(みたて)と出で立つ我は -
父母と別れて防人として旅立つ子が歌った歌
いつの世も、兵役のために夫婦、親子が別れ別れになるのは辛く悲しいことである。
さて、これから「奥の細道、室の八嶋」へ行くのだが(当たり前のことではあるが)芭蕉が実際に歩いた道がよくわからない。曽良日記には「此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生へ一リ半。飯塚ノ宿ハズレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室の八嶋へ行(乾ノ方五町バカリ)。」と書かれているのだが・・・・。
iPadの地図を頼りに、花見が丘交差点を越え、壬生乙三叉路を左折、黒川を渡り県道2号線の思川を渡ると室野八嶋交差点がありそこを右折してやっと「室の八嶋」にたどり着いた。
芭蕉と曽良が江戸・深川を立ったのが元禄二年三月二十七日早朝、粕壁、間々田に宿泊し、室の八嶋を訪れたのは三月二十九日,深川を立って3日目、それに比べると随分ゆっくると時間をかけたものである。
鳥居をくぐり、長い杉木立の参道を歩くとその奥に大神神社(おおみわじんじゃ)がある。
大神神社は下野惣社大明神とも呼ばれ、境内にその説明版が立っている。
「下野惣社(室の八嶋)大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。」(説明版)
「奥の細道・四 室の八嶋」には、以下のように書かれている。
「室の八嶋に詣(けい)す。同行(どうぎょう)曽良が曰(いわく)此神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八嶋と申す。又煙(けぶり)を讀習し(よみならわし)侍(はべる)もこの謂也(いわれなり)将(はた)このしろといふ魚(うお)禁ず。縁記(起)(えんぎ)の旨世に傳(つた)ふ事も侍りし。」
(室の八嶋に参詣した。同行の曽良が言うには「ここの祭神は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と申して、富士の浅間神社と同じ神である。この姫が戸の無い塗りごめの室に入って、火をつけてお焼きになりながら無事に御曹司を産もうとなされた誓いの中から、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)がお生まれになったので室の八嶋と申します。またここを歌によむ時には、煙に因んだ歌をよむ習わしになっているのも、この木花開耶姫のもいい伝えによるのです。またここでは「このしろ」という魚を食べることを禁じています。この神社のこういう由来を語る話も、すでに世に伝わっています。」
「室の八嶋」は大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあり主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)、配祭神は、木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)、瓊々杵命 (ににぎのみこと)(木花咲耶姫命の夫神)大山祇命 (おおやまつみのみこと)(木花咲耶姫命の父)、彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと)(木花咲耶姫命の子)
木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)は絶世の美女で日向に降臨した天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)は,笠沙(かささ)の岬で木花咲耶姫命に出会う。その美しさに一目ぼれした邇邇芸命は木花咲耶姫命と一夜の契りを交わす。木花咲耶姫命は一夜で身篭るが、邇邇芸命は「自分の子ではない」と疑った。怒った木花咲耶姫命は無戸室に入り疑いを晴らすため、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすいせりのみこと)・火遠理命(おおりのみこと)を産んだ。
曽良が火々出見(ほほでみ)のみことと言っているのは、火遠理命(おおりのみこと)でその孫が初代天皇の神武天皇である。
また、火照命(ほでりのみこと)は海幸彦となって海で漁をし、火遠理命(おおりのみこと)は山幸彦といって山で狩りをするといった「海幸彦、山幸彦」の神話も生まれている。
境内には芭蕉の句碑が置かれていて「芭蕉と室の八嶋」の説明版が添えられている。
「松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」への旅に出発した。途中、間々田、小山を経て飯塚から左に折れて川を渡り室の八嶋に立ち寄っている。その時詠んだというのが「糸遊(いとゆう)に結びつきたるけぶりかな」の句である。むかし、このあたりからは不思議なけむりが立ちのぼっていたといわれ、「室の八嶋に立つけぶり」は京の歌人たちにしばしば歌われている。(説明版)
「糸遊」はかげろうのことで「糸」と「結ぶ」が縁語になっている。「室の八嶋の煙は、春の陽炎と結び合って立ち上っていく」といったような意味合いか。
芭蕉はここでこの句も含め五つの句を詠んでいる。
- 糸遊に 結びつきたる けぶりかな - (句碑に刻まれている)
- あらたふと 木の下暗も 日の光 -
- 入りかかる 日も糸遊の 名残かな -
- 鐘つかぬ 里は何をか 春の暮れ -
- 入逢(いりあい)の 鐘もきこえず 春の暮れ -
が、いずれも「奥の細道」には書かれていない。
「室の八嶋」は、説明版にもあるように歌枕の地で、平安の昔から多くの歌が詠まれている。
- いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八嶋の 煙ならでは - 藤原実方
‐ 人を思ふ 思ひを何に たとへまし 室の八島も 名のみ也けり - 源重之女
- 煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける - 大江匡房
- いかにせん 室の八島に 宿もがな 恋の煙を 空にまがへん - 藤原俊成
- 暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば - 藤原定家
- 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ - 大江朝綱
- いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん - 藤原俊成
- 恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ - 藤原忠定
室の八嶋を後に壬生道に戻って先へ行くと「壬生町」である。黒川に架かる御成橋を渡って10分程行くと「壬生の一里塚」が見えてくる。江戸・日本橋から二十三番目の一里塚である。
この辺りが壬生宿の入口であろうか。