中山道旅日記16 太田宿-鵜沼宿-加納宿

27日目(4月20日(水)) 太田宿-鵜沼宿加納宿

今日も早立ちである。午前7時5分の電車で「坂祝駅」へ。

坂祝駅から国道に出て土手を上がって「ロマンチック街道」と呼ばれる木曽川沿いの遊歩道を歩く。大きな庚申塔が立っていて木曽川の流れや奇岩が楽しめる。

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「勝山」の交差点で国道に戻りしばらく行くと「坂祝町 東太田宿 西鵜沼宿」の道標がある。そこからが旧道で右手に入り坂を上ると「巌屋坂の碑」が立っている。調べてみると、この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とある。「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだ。

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その先には、「巌屋観音堂」がある。この観音は、推古天皇の時に勧請されたものと伝えられていて巌屋の中に観音像が安置されている。

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巌屋観音から階段を下って再び国道に出る。しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランがありその横に「中山道 下りる」の道標があり、そこを下りると小さなトンネルが国道をくぐっている。トンネルを抜けると旧道である。

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旧道は「うとう峠」へと続くが、上り口には「中山道の説明版」が立っている。

中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。」(案内板)

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「うとう坂」とよばれる峠道を上って行くと休憩所があり一休みすることができる。休憩所の先は石畳になっていて10分程行くと「うとう峠の一里塚」がある。江戸からちょうど百番目の一里塚である。(日本橋を出たから約400キロを歩いたことになる。)

「うとう峠一里塚と中仙道・江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とかうとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。

 「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。

 江戸時代に、各務原(かがみがはら)を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。」(説明版)

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一里塚からは下り坂で、すぐのところに「日本ラインうぬまの森」の大きな碑がありそこから10分ほど行くと「赤坂の石塔群」がおかれていて、さらに10分程さきには「赤坂神社」がある。

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赤坂神社からさらに下っていくと小さな「地蔵堂」があり「東の見附跡と地蔵堂」の説明版が立っている。

「東の見附跡・江戸時代、宿場の入り口には宿内の防御と街道との境界を示すため見附(みつけ)がありました。鵜沼宿の東の見附はこの案内の少し西にありましたが、現在その遺構を見ることはできません。東からうとう峠を下ってきた中山道は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、西へ七町半八間(約八百三十九米)の町並みを経て西の見附に至ります。

地蔵堂・地蔵堂には「宝暦十三年(一七六三)・女人中に講中」と刻まれているほか、左右には「左ハ江戸、せんこうしみち(善光寺道)」、「右ハさいしょみち(在所道)とあり道しるべを兼ねたようです。江戸時代から地元の皆さんにより大切にお守りされています。」(説明版)

地蔵堂から5分程行くと「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の道標がある。

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第52宿 鵜沼宿・本陣1、脇本陣1、旅籠25

(日本橋より100里30町8間 約396.00キロ・太田宿より2里 7.85キロ)

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鵜沼宿は江戸の日本橋から数えて五十二番目の宿場である。宿の東側の出入り口にあたる赤坂見附には、道標を兼ねた「地蔵堂」がある。 宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる。 (パンフレットより)

鵜沼宿の入り口には、「高札場跡」が復元されている。

「高札場由緒・高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。

この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。

また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。」(説明版)

宿村大概帳とは幕府の道中奉行が、五街道とその脇街道を調査したときの記録である。

さらに、「尾州領傍示石」が交差点をはさんで2本立てられている。

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尾州領傍示石 由緒・ 中山道鵜沼宿尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てました。

 この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。

 各務原(かがみがはら)市の大切な歴史遺産の一つになっています。」(説明版)

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また、「鵜沼宿問屋場跡」の説明版も壁に掛けられている。

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交差点を渡ると大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡ることになる。橋の手前左側には、常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれていて、橋を渡った右にも常夜燈と足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っている。

 

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このあたりが宿場の中心地であったのだろう。雰囲気全体が昔風に整えられている。

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橋を渡って右手にあるのが「中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)で各務原(かがみがはら)市の重要文化財に指定されている堂々たる古民家である。

中山道鵜沼宿町屋館由来・当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。(説明版)

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町屋館の裏庭に、「ふぐ汁も 喰えば喰せよ(くわせよ) 菊の酒」の芭蕉句碑があり
町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。

「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。

規模は、間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。」(説明版)

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鉄門の先には「鵜沼宿本陣跡」の説明版があり以下のように書かれている。

鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。寛延二年(一七四九)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。

分化六年(一八〇九)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。

中山道宿村大概帳」天保十四年(一八四三)に、「本陣凡そ建坪百七拾四余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・二之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。」

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」である。脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいて、説明版が添えられている。

左から「汲溜の水泡たつや蝉の声」「おくられつ送りつ果ハ木曾の秋」「ふく志るも喰へは喰せよきく之酒(ふぐ汁もくらえばくわせよ菊の酒)」

鵜沼宿芭蕉・貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。

 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋

と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。」(説明版)

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鵜沼宿脇本陣は、現在無料で公開されている。

管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。平成になって江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに完全な形で復元されたとのことである。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。

史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。

なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。」(説明版)

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脇本陣のすぐ先に黒塗りの立派な建物「菊川酒造」があり、さらにその先には、「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒(坂井家、旅籠であった茗荷屋梅田家梅田家、安田家)が軒を連ねている。

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古民家の先には、「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標があり、さらに先の交差点を渡った左側には「鵜沼宿」の碑が置かれている。

その先、5分ばかり行くと「西の見附跡」の立て札が立てられている。立札には以下のように書かれている。

「西の見附跡・見附とは、宿場の入り口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛り土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と西の見附がありました。鵜沼宿の見附は、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」(中島家文書)に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、「したに―、したに―」と大声を上げて、恰好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。」

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見附跡を後にして5分程行くと、「空安寺」の手前に「衣裳塚古墳」が見えてくる。

「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。

衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。

衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

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衣裳塚古墳から10分程歩くと「島津神社」がありその境内には、「皆楽座」があり説明版によると「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。」のだそうだ。

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街道は程なく国道21号線に合流し、しばらく行くと車道は上り坂の陸橋となるが、側道を中程まで行くと「播流上人碑」がある。このあたりに当時「各務原(かがみがはら)一里塚」(江戸から101番目の一里塚)があったと思われるが今は何も残っていない。説明版、碑の類もないので定かではない。

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この先は、これということもなく国道21号を淡々とあるき「蘇原三柿野町(そはらみかきのちょう)」の交差点で再び旧道に入ってしばらく行くと「六軒一里塚跡」の碑が立っている。百二番目の一里塚である。このあたりは「六軒茶屋」と呼ばれた立場で当時はかなり賑わっていたのだろう。その名の由来は茶屋が六軒並んでいたからだそうだ。その先には、「神明神社」がある。

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さらに旧道を進み「那加橋」を渡り、「新加納町」の五叉路を右手に入るとすぐに「日吉神社」があり、その先が「新加納の立場」である。鵜沼宿から次の加納宿までは四里十町(約16.8キロ)もあり中山道で二番目に長い距離であった。従って中間地点に「間の宿(あいのじゅく)」を設ける必要があった。「新加納の立場」は、かなり賑わっていたようでやがて「間の宿」に発展していったのであろう。

新加納の立場跡から桝形に入る両側に一里塚があったようで「一里塚跡」碑が対で置かれている。百三番目の「新加納の一里塚」である。

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桝形を真っ直ぐ進んだ突き当たりは御典医の今尾家」である。

中山道は、ここを右へ行くのだが今尾家の塀に沿って左へ進むと突き当たりが岐阜県指定文化財の「東陽英朝禅師塔所」の「稲荷堂」がある。

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今尾家の前を右折して旧道に戻り、すぐ左折するとそこから先は殺風景な通りを30分ばかり行くと火祭りで有名な「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居がある。鳥居をくぐれば神社だが先を急ぐことにする。すぐそばに「左・木曽路」の道標も置かれている。すぐ先の出会いの道を右折すると浄慶寺がある。浄慶寺の横には「切通陣屋跡」の碑があり「中山道」「右キソミち・左京ミち」の道標、中山道の碑と「切通の由来」の説明版が立っている。ベンチも置かれていたのでここで一休みである。

「切通の由来・切通は境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。

切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」(説明版)

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さらに10分ほど進むと伊豆神社の手前の祠があり馬頭観音が祀られている。そのすぐ横には「右 江戸ミチ、左 京ミチ」道標が立っている。

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伊豆神社から20分ばかり歩くと「細畑の一里塚」と呼ばれる百四番目の一里塚がある。

中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。一里塚は一里(約三.九キロメートル)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となるように置かれたものである。街道の両側に五間(約九.一メートル)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。

細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から三里十四町(約一三.三キロメートル)西方の加納宿まで三〇町(約三.三キロメートル)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている」(説明版)

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一里塚のすぐ先がY字路に延命地蔵堂があり、左脇には道標も立っている。ここは、伊勢道との追分で道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られている。中山道は右の道を進むことになる。

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追分から20分程歩くと中山道は、東海道線の高架をくぐることになる。さらに名鉄「茶所(ちゃじょ)駅」横の踏切を渡ったすぐ左側に「中山道加納宿」の碑が立っていて、すぐその横に「鏡岩の碑」がある。鏡岩とは、江戸時代の相撲取りの四股名だそうで岐阜市教育委員会の説明版が添えられている。

「ぶたれ坊と茶所・この、ぶたれ坊と茶所は、江戸時代の相撲力士「鏡岩浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を次いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。

 ここの少し北にある東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。江戸時代には多くの人たちが訪れたことでしょう。現在では、歴史的な町並と地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。」(説明版)

鏡石の横には正面に「東海道 伊勢道」右側面に「江戸 木曽路」と彫られた道標が立てられている。

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第53宿 加納宿・本陣1、脇本陣2、旅籠35

(日本橋より105里4町8間 約412.8キロ・鵜沼宿より4里10町 16.8キロ)

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中山道は山谷沿いの険しい道が多く、参勤交代の大名行列東海道に集中。交通量が少なかったことから婚礼行列によく使われ、通称、姫街道ともいわれた。また、伊勢参詣ルートなど庶民の道としても利用された。江戸から京都までを結ぶ544キロの行程には宿場町が全部で69宿。岐阜市には加納宿河渡宿がありました。加納宿は美濃にあった16宿のうち最大の宿場町。城下町にある唯一の宿場として、また商工業が盛んだったことから遠く江戸や大阪まで人や荷役の往来が激しかったといわれている。(岐阜市観光情報より)

さて、鏡岩の先は桝形になっていて「だんご屋」さんを直角に右折する。加納大橋を渡り「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と彫られた道標がある桝形を今度は左折である。

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秋葉神社を過ぎ、次の桝形の手前には、「東番所跡碑」が立っている。このあたりが宿場の入り口だろうか。

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「東番所跡碑」の先の桝形を左折し突き当りの「善福寺」の桝形を右折すると左手に「伝福寺」があり、その先に「岐阜問屋場跡」の説明版が立っている。

「岐阜問屋場跡・加納新町の熊田家は、土岐、斉藤時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にあったころには加納の問屋役を務めていました。江戸時代に入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩が将軍に献上する「鮎鮨(あゆずし)」の継ぎ立をしており、御用提燈(ごようちょうちん)を許されていました。献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所(おすしどころ)を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、鮨街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。」(岐阜市教育委員会説明版)

先ほど、「御鮨街道」の道標を見かけたが、御鮨街道とは尾張藩が将軍家へ献上する岐阜名産品の「鮎鮨」を、笠松問屋まで届けた街道のことであった。

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さて、先へ進んで中山道は次の桝形で左折だがそこには「左 中山道」(正面)「左 西京道」(左側面)「右 ぎふ道」(右側面)と彫られた道標に説明版が添えられている。

中山道の道標・この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京路」「右東京道」の標識が追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でありました。

昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会」(説明版)

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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桝形を左折し、清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札が立っている。

「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りや辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。

 加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。

平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

すぐその先には「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と共に「加納宿大手門跡」の碑が立っている。

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そのすぐ先に「当分本陣跡」の碑が立っている。当分本陣とはどういうことか調べてみると文久三年(1863)から当分の間補助的に置かれた本陣のことだそうだ。さらにほとんど並ぶように「本陣跡」の碑が立っている。碑には「中山道加納宿本陣跡」側面に「皇女和宮御仮泊所跡」と彫られている。また、和宮の歌碑が置かれている。

-遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりかり- (和宮

加納宿脇本陣跡もすぐそばにある。

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脇本陣跡の先には「加納天満宮」が見えてくる。この天満宮は古くから氏神様として信仰されていたのだそうだ。

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ところで十返舎一九の「続膝栗毛」で弥次喜多は赤坂から加納へ向かう途中、加納宿の手前で身なりの悪い浪人と道ずれになり、宿も相宿になる。(弥次喜多は、京から江戸へ下っている。)浪人者を盗人と勘違いした喜多八は、問屋役人の宿改めに盗人の巻き添えになるのはごめんと寒さをこらえ裸で縁の下に隠れるが、実はその浪人は宿場の人々に慕われている剣術の先生であった。

-定九郎(さだくろう)と思いし人はさもなくて 縁のしたやにわれは九太夫-

忠臣蔵の悪役の定九郎と思った人はそうではなくて縁の下に隠れていた自分の  ほうが悪者の斧九太夫であった。)

次の交差点を右折すれば岐阜駅。今日の泊りは岐阜駅前のコンフォートホテル岐阜。ホテル内にあるコインランドリーがありがたい。

中山道旅日記 15 細久手宿-御嵩宿-伏見宿-太田宿

第48宿 細久手宿・本陣1、脇本陣1、旅籠24

(日本橋より92里30町8間 約364.59キロ・大湫宿より1里18町 5.89キロ)

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馬頭観音から15分程行くと、「高札場跡」の碑が建てられており右手に「庚申堂」がある。境内には中に役行者像が祀られている石窟や石仏、石塔などが置かれている。このあたりが宿場町の入り口のようである。

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江戸時代初期(慶長年間)大井宿から御嵩宿の間の八里には、宿場はなく難渋していた旅人のために大湫の宿が設けられたが、それでも大湫宿御嵩宿の間は四里半(17.7Km)の坂道であった。そのため美濃国の奉行・大久保長安に細久手に新しい宿を造るように命じられた国枝与左衛門は、既存の旅籠に加え自力で七軒屋と呼ぶ仮宿を設けた。それが山間の小さな宿場町・細久手宿である。

公民館の先にある瑞浪市の説明版には「標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目(距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年(1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四百十メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記録があります。 細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年(1813)、安政五年(1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。」とある。

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公民館の向かいが「大黒屋」、本日の宿である。

大黒屋は尾張藩の定本陣で、脇本陣が狭いことに加え、他の大名との合宿を嫌った尾張藩が特に問屋酒井吉右衛門家を専用の本陣にあてたものだそうだ。

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26日目(4月19日(火)) 細久手宿御嵩宿-伏見宿-太田宿(ビジネス旅館いろは)

一夜明けて4月19日、今日も太田宿まで6里(約23.5キロ)の行程である。

午前7時30分に大黒屋さんに別れを告げて先へ行くと右手に「本陣跡」(大山家(屋号・日吉屋))の碑が立っている。その向かい「仲町」のバス停あたりが、脇本陣があった所か。なんの表記もなく草がぼうぼうと生えているだけなので定かではない。

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さらに先へ行くと「細久手口」のバス停があり、このあたりがもはや宿場の出口である。

旧道は広い道路とんなり、先へ進むと右手に「細久手の穴観音」と呼ばれる馬頭観音が祀られている。この馬頭観音は、観音様の縁日にお参りすると九万九千日のご利益があると信じられており「九万九千日観音」とも呼ばれている。

穴観音から10分程先に行くと「旧中仙道くじ場跡」の碑がある。くじ場とは当時の日雇い人足などが休んでいた小屋で、人足が運ぶ荷物の順番を「くじ」で決めていたことから付たれた名だそうである。

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この先は下り坂になり、坂を下り「平岩橋」を越えると上り坂になり、やがて「左・中山道西の坂」と彫られた碑がある。

その対面には「瑞浪市内旧中仙の影」の碑が置かれている。内容は、以下の通りである。

瑞浪市内仲山道の影」

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻

一.切られヶ洞

一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里

    路上及び一里塚附近よりの眺め

一、東に笠置山恵那山駒ケ岳

一、西に、伊吹山鈴鹿連峰

一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山

一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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道標にしたがって左の急な上り坂に入ると、道は昔のままで3分程上って行くと右手に「秋葉三尊」が祀られていて「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

細久手宿御嵩宿の間は三里(約11.8km)。細久手宿から中山道を西へ、平岩の辻から西の坂道を登ると三室に分かれた石窟があります。

 右の石室に祀られているのは、明和五年(1768)の三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像。中央には一面六臂の観音坐像が、左の石室には風化の進んだ石仏が安置され、石窟の右端に残る石灯籠の棹には、天保十一年(1840)の銘があります。

 なお、ここは、石窟のすぐ上に秋葉様が祀られていることから、秋葉坂とも呼ばれています。 瑞浪市

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すぐその先には、「鴨之巣道の馬頭文字碑」があり5分程行った辻には「鴨之巣辻の道祖神碑」、「右・旧鎌倉街道迠約一里余」の碑が立っている。

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その先、下り坂を下っていくと「切られ洞」の碑が置かれている。これは、「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に切られた処」なのだそうだ。

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ここからは、少しの間上り坂ですぐに下り坂になるが坂の途中に「鴨之巣の一里塚」がある。江戸から九十三番目の一里塚である。

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。」(説明版)

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一里塚を過ぎると旧道は昔のままの峠道が続く。25分程歩くと「山内嘉助屋敷跡」の碑がある。山内嘉助は、江戸時代に酒屋を営んでいた豪商でここはその屋敷跡だそうだ。そのすぐ先に「鴨之巣一里塚」と「御殿場」の道標が置かれている。さらに、「百番供養塔」と刻まれた供養塔を過ぎ、御殿場へ向かって竹林を歩くことになる。

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道は「諸ノ木坂」と呼ばれていた急な上り坂で、峠は「物見峠」と言われていた。

ここは、皇女和宮が休憩を取ったことから「御殿場」と呼ばれるようになったのだそうだ。「馬の水飲み場」と呼ばれている水飲み場、右手には見晴らし台があり「笠置山」がきれいに見える。説明版も添えられている。

「御殿場・文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し、十四代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休憩する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。

 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、四千~五千人にも及ぶ大行列でした。近隣では十月二十八日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嵩宿にて休憩、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。中山道が別名「姫街道」と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。瑞浪市」(説明版)

「馬の水飲み場・ここは物見峠といい、道路の両側に計五軒の茶屋があり、十三峠前後のこの地であれば往来の馬もさぞかしのどが渇いたであろう。

存分のみなさいと北側に三カ所の水飲み場が設けてあった。」(説明版)

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御殿場跡を過ぎると旧道は、下り坂に変わり15分程下ると「唄清水」と呼ばれ、清水が湧き出ている場所に出る。「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」の句碑が添えられている。当時は、ここを通る人の喉を潤したのだろうが今は飲めない。

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昔のままの旧道が舗装道路になったところに和宮も飲んだといわれている有名な名水「一呑みの清水」が残っている。説明版には以下のように記されている。

中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所でした。江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。 岐阜県 名水50選のひとつ。」

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一呑の清水から一旦車道を歩くとすぐに「左・左舳五山茶園 右・中山道石畳」の道標があり、右の旧道に入ると「中山道・十本木立場」の人説明版が置かれている。

「宝暦5年(1756)刊の「岐蘇路安見絵図」にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。一方で古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです。」(説明版)

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五分ほど歩くと復元された一里塚が復元されている。「一里塚(謡坂十本木)」と刻まれた説明版が添えられている。江戸から九十四番目の一里塚である。

「慶長九年二月、徳川幕府東海道中山道北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に五間四方(約16メートルほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。

 一里塚は、一般的に一里ごとに榎、10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。現在の御嵩町内にその当時四ヵ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治四十一年にこの塚は二円五〇銭で払下げられ、その後取り壊されました。

 この一里塚は昭和四八年、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。」(説明版)

その先右手に「十本木の洗場」の木札が立っている。木札に書かれている文字は剥げて読めないが、御嵩町観光協会によれば「慶長九年二月、街道の両側に一里塚が造られ、その付近に十本の松の大木があったことから、此処を十本木の立場と呼ばれるようになった。道中の人足が駕籠や荷物をおろして休息した所から発展して茶屋や木賃宿が設けられ旅人の休息所となった。この池は当時の共同洗場である。安藤広重の木曽街道六拾九次の内 “御嵩宿” の画はこの場所がモデルとも云われている。」だそうだ。

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十本木の洗場の隣に安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」の説明版が立っている。

「江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に安藤広重(1797~1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嵩宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだといわれています。

 広重の作品のなかに「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。御嵩町」(説明版)

その向かい側に「十本木の茶屋跡」の説明版が立てられている。

「十本木茶屋跡・謡坂一里塚のすぐ近くにあって、「新撰美濃志」にも「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくという。」と記されている。西方からは、急坂を登りつめた所にあって、ここで汗を拭き拭き一ぷくした茶屋であったといわれている。」(説明版)

 

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茶屋跡から5分ぐらい歩くと旧道は石畳になる。「謡坂石畳」と呼ばれている石畳で「謡坂石畳」の碑も立っている。

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石畳を歩いていくと「左・江戸へ九十四里八丁 右・京へ四十里十三丁」の道標がありそこから5分程先に「耳神社」と呼ばれている小さな神社がある。説明版には、「全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも竹などでまねて作ったものでもよく、紐で編んだすだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことがうかがえます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。元治元年(1864)、武田耕雲斎尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党中山道を通った時、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。

御嵩町御嵩町観光協会」と書かれている。

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先へ行くと「左・御嵩宿四一〇〇米 右・細久手宿七七〇〇米」の碑がありその先5分程歩くと馬頭観音が石窟に納められている寒念仏供養塔がある。御嵩町教育委員会のパンフレット「中山道往来」によれば「石窟におさめられている三面六臂馬頭観音像は、台座正面に「寒念仏供養塔」、左側には「維持明和二酉年」、右側に「八月彼岸珠日」と刻まれている。寒念仏は一年で最も寒い時期に、村人が白装束で集まり、鉦を叩いて念仏を唱えながら村中を練り歩く修行のことで、心身を鍛え願いを祈念したという。」だそうだ。

すぐ先には「牛の鼻かけ坂」の碑が立っている。

 「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で 鼻かいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。御嵩町」(説明版)

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急な牛の鼻かけ坂を下ると舗装道路に出るがしばらく行くと国道21号線に出会い国道を歩くと和泉式部の廟所がある。自らの出来事を三人称で日記にした「和泉式部日記」宮中の恋愛を歌にした「歌集」知られる平安中期の歌人で、古くからこの付近で没したと伝えられている。説明版が添えられていて、以下のように記されている。

「泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代を代表する三大女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中御嵩の辺りで病に侵されてしまい。鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没したといわれています。」墓所に置かれている石碑には

「ひとりさへ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまれ いずみ式部廟所 寛仁三己未天」と刻まれている。

下諏訪宿の「銕焼(かなやき)地蔵と和泉式部伝説」の説明版にもこの廟所のことが書かれている。

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先には、「右・中街道」と彫られた道標が立っている。中街道とは、東山道の名残で大井宿から下街道を抜けて中山道御嵩宿へ入るルートだそうである。

「中街道」の道標から15分程歩くと「左・細久手宿 右・御嵩宿」の道標がある。

ここから旧道に入りしばらく行くと御嵩宿である。

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第49宿 御嵩宿・本陣1、脇本陣1、旅籠28

(日本橋より95里30町8間 約376.37キロ・細久手宿より3里 11.78キロ)

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「慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長七年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、重要な拠点とみなしていたことがうかがえます。

 御嶽宿は江戸から四十九番目の宿場にあたり、天保年間の『中山道宿村大概帳』には、宿内町並四町五十六間(約五百四十メートル)、家数六十六軒(内旅籠屋二十八軒)、このほか本陣・脇本陣が各一軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。

 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。

御嵩町御嵩町観光協会」(説明板)

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御嵩宿に入ると左手に「正一位秋葉神社上町組」と刻まれた碑が立っていてその後ろには井戸がある。用心井戸と呼ばれる防火用の井戸で普段は飲料用として利用されていた。

宿場の町並みは左右に旧家が並びそれなりに趣がある。

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続いて、商家「竹屋」があり隣に「御嵩宿」の碑が立っていて右側面に「東・細久手宿」左側面に「西・伏見宿」と記されている。また「天保13年(1842)頃の御嶽宿の家並み図」も掛けられている。

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そして、その隣が「御嵩宿・本陣跡」「みたけ館(脇本陣跡)と続き「江戸より98里38町」と刻まれた大きな碑も立っている。

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「みたけ館」の先の唐沢橋を渡りしばらく行った交差点の所が「願興寺」山号は「大寺山(おおてらさん)」で「蟹薬師」として知られている。御嵩町観光協会のHPには、「天台宗祖「最澄」が東国巡錫の砌、この地に布施屋を建立し、自刻の薬師如来を奉納安置したのが起源とされる。その後、一条天皇の皇女とされる行智尼(ぎょうちに)が最澄自刻の薬師如来を朝夕と礼拝されていたところ、南西の尼が池から数千の沢蟹の背に乗った一寸八分の金色の尊像が顕現したという。これが天聴に達し、勅命により七堂伽藍が建立された。その後、多くの僧、権力者、そして何よりも民衆に支えられて現存している。現在、本堂並びに、本尊薬師如来及び日光月光両脇持、四天王像、十二神将、釈迦如来三像、阿弥陀如来立像、坐像の24体が国指定の重要文化財に指定されている。」と記されている。

また、願興寺は、瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)を庇護していたため瞽女たちの聖地にもなっているのだそうだ。大寺瞽女については、次のような逸話が残っている。「行智尼が京都から連れてきた3人の侍女が金色の薬師如来像をぜひ拝んでみたいと、決して開けてはいけないと行智尼から戒められていた厨子の扉を開けてしまった。金色の薬師如来像のあまりのまぶしさに思わず閉ざした3人の目は、それっきり開かなくなってしまい、行智尼が念仏を唱えてもかなうことはなかった。行智尼は目の見えなくなった3人の侍女に、楽器の演奏を教え、3人の侍女は、薬師様を讃える歌をうたいながら三味線を弾き、近くの村の家を回った。彼女たちはこのあたりでは大寺瞽女(おおてらごじょ)と呼ばれ、瞽女の始まりと言われている。」

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街道は、願興寺で桝形に曲がっていて先に行くと国道(21号)に変わり、しばらく行くと「鬼の首塚」と呼ばれている祠があり、説明版が添えられていて内容を要約すると「西美濃不破の関の生まれで関の太郎という凶暴で悪行三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め、「鬼の太郎」と呼ばれていた。鬼の太郎は住民を大いに悩ませていたが「蟹薬師」のお告げにより捕らえられ、首をはねられた。検分のため首を桶に入れ都へ運ぼうとしたところ急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなった。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、首をこの地に埋めた。」とのことである。

この下りは、十返舎一九の「続膝栗毛・五編下巻」の最初に書かれている。

「此所(このところ)は、むかし関の太郎といへる鬼の首を桶に入れて都におくるに、か

の首次第に重くなりて数十人の力に及ばず、此所に桶のまゝ埋めたるゆゑかくは名付けしと言傳ふるよしをききて、

- 桶縄手 今もその名は朽ちざりき 塩漬けにせし 鬼の首かも -」

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鬼の首塚の横には、正岡子規の歌碑が置かれている。

- 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 子規 -

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子規の句碑から20分程歩くと右手に旧道が復活するが旧道に入った所に「中山道・比衣一里塚跡」の碑が立っている。さらに10分ほど先に「左・伏見宿 右・御嶽宿」の道標が立っている。旧道は再び国道21号に合流し、上り坂を上り切ったところが「伏見宿」である。

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第50宿 伏見宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より96里30町8間 約380.30キロ・御嵩宿より1里 3.93キロ)

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伏見宿は、元禄7年(1694)の立宿である。慶長7年(1602)の御嶽宿に対しては、新しい宿場といえる。御嵩宿から太田宿間は3里あり、途中に木曽川の渡しがあったために新設されたものであろう。御嵩宿からは西1里にあり、まわりからは高台になっている。この高台の東からの坂を上ったところに高札場があった。宿内は6町あまりで、本陣、脇本陣と旅籠を29軒有していた。宿の西側の木曽川岸に新村湊があり、尾張方面への川下げが行われていたようである。(御嵩町観光協会HPより)

現在は、国道21号が宿場を貫いているため、昔の風情はない。

宿場に入るとすぐに「伏見宿・本陣之跡碑」が置かれており、「是よ里東尾州藩領」と彫られた大きな領境碑が立てられている。

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その先、「伏見」の交差点に「一本松公園」があり四阿や、きれいなトイレもあるので一休みするにはちょうどいい。「宿場行灯」も置かれていて心休まる思いである。街道脇には「右・御嵩 左・兼山 八百津」と刻まれた道標も置かれている。ここは斉藤道三の養子、斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

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交差点を左に100メートル程入ると「洞興寺」があり境内には、伏見宿の飯盛り女たちの亡骸を葬った「女郎塚」がある。「死後引き取り手のなかった彼女たちのそれぞれに表情を凝らした墓石群は哀愁を漂わせている。隣には子安観音が奉られている。」(御嵩町観光協会HPより)

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街道に戻り、先へ行くと左手に旧旅館「三吉屋」がありその先には正岡子規の歌碑が置かれている。 - すげ笠の 生国名のれ ほととぎす -

正岡子規の)「かけはしの記」に依れば明治二十四年(1891)五月末日、木曽路を経て故郷松山への道中、伏見宿に泊った正岡子規は、「朝まだほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。」と記している。

新村湊にて「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」の一句を残し小舟にて木曽川駅までの舟旅を楽しんだ。御嵩町観光協会

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このあたりは、もう宿場の外れのようである。「上恵戸」の交差点の所に「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」「左 多治見及大山ニ至ル 約四里」と彫られた道標が立っている。

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「中恵戸」の交差点には新しく作られた「一里塚跡」の碑が置かれている。江戸から九十七番目の「恵戸の一里塚」である。右面は「江戸・伏見宿」左面は「京・今渡の渡し・太田宿」裏面に「中山道開宿400周年記念事業 可児市可児市観光協会

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この先は、特にこれということもなく淡々と歩いていくとやがて旧道は国道と別れ

JRの踏切を渡りしばらく行くと「住吉」の交差点があるがその先が「今渡(いまわたり)立場」である。当時は中山道の難所と言われた太田の渡しを控えて随分賑わったのだろう。立場の入り口には「今渡神社」がある。その先の「龍洞寺」に「龍の枕石」なるものが祀られている。これは、雄と雌の「龍神の寝枕」だそうだ。さらに5分程行くと「富士浅間神社」があり旧道はここで直角に右に曲がることになる。

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さて、いよいよ木曽川に架かる「太田橋」を渡ることになるのだが、橋の手前に「木曽のかけはし太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と彫られた碑が置かれている。当時の木曽川は流れが急で、かなり深かったため渡し舟で渡るしかなかったようである。また、「今渡渡し場」の碑に説明版が添えられている。説明版には以下のように書かれている。

今渡の渡し場

 中山道の三大難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。

 明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。

 昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

渡し場の移り変わり

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。

 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。

 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場でなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。

市内渡し場の渡船料金(明治14年)

 

今渡の渡し

川合の渡し

土田の渡し

1銭2厘

1銭

1銭

牛馬

2銭4厘

2銭

2銭

1銭2厘

1銭

1銭5厘

荷物

2銭4厘

1銭5厘

 

 『可児町史』(通史編)1980より 平成十七年九月建替 可児市教育委員会

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太田橋を渡り、木曽川の堤防沿いを歩いて旧道に出ると太田宿である。

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第51宿 太田宿・本陣1、脇本陣1、旅籠20

(日本橋より98里30町8間 約388.15キロ・伏見宿より2里 7.85キロ)

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太田の渡しは、十三世紀以前から存在していたと考えられるが、ここが宿場のひとつとして定められ、繁栄するのは、徳川家康によって伝馬制が整備されてからである。慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、政治・軍事上の必要から伝馬制を拡充し、伝馬を提供する所として宿を定めた。中山道は慶長7年(1602年)に伝馬制ができ、宿のひとつが太田宿であった。万治元年(1659年)に五街道東海道中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が定められ、太田宿は中山道69宿の一つとして栄えることになったのである。江戸からは51番目の宿場にあたり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・遊女屋などで賑わいました。太田宿の大きな特徴は、木曽川を渡る「太田の渡し」。木曽川が増水すると川止めとなり、旅人は木曽川を越えることができなかった。(中山道・太田宿HPより)

さて、旧道に出ると「中山道太田宿・明水神公園」の行灯が立っている。その先には「法華経塚」が祀られていて「法華経塚と飛騨街道追分」の説明版があり、以下のように書かれている。

法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。

 ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向う飛騨街道の追分があります。

 現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。 美濃加茂市商工観光課」

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しばらく歩いていくと「太田稲荷神社」があり、その隣が「祐泉寺」である。祐天寺境内には太田の地で生れ育った明治の文豪坪内逍遙が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」の碑、北原白秋が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌の碑、松尾芭蕉の門弟となった脇本陣3代目の林由興(冬甫)が師を悼んで建てた芭蕉の句碑が残されている。

- やま椿さけるを見ればいにしへを 幼きときを神の代とおもふ(逍遥)-
- この木の実ふりにし事のしのばれて 山椿はないとなつかしも(逍遥)-

- 細葉堅秋雨ふれり うちみるや 石燈籠のあを苔のいろ 白秋 -

- 春なれや 名も無き山の 朝かすみ 芭蕉 -

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街道は、祐泉寺の先で桝形に曲がっていて、角を曲がったところに旧旅館の「小松屋」(吉田家)がある。小松屋は、お休み処になっていて無料で入場できるということだが本日は定休日(火曜日)で入場はできなかった。このあたりの町並みはなかなか趣がある。

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松屋から5分程先には、「脇本陣」林家がある。これは見事な建物で国の重要文化財に指定されているのもうなずける。

「旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。

この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。

又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。

昭和六十一年一月 美濃加茂市」(説明版)

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脇本陣の向かいが「本陣」(福田家)だが今は門だけが残っている。

「旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。

 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。

 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理しました。」(説明版)

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すぐ先に「中山道分間延絵図」「加茂群太田村家並み絵図」、「中山道会館」がある。

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街道は、その先桝形に曲がり角に「高札場跡」の立て札と「高札場跡と郡上街追分道標」の説明版があり「右・関上有知 左・西凶京伊勢道」と彫られた道標が置かれている。

「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。

 太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。」(高札場跡立札)

「高札場跡と郡上街道追分・高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。「濃州徇行記」には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分でもあります。左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。 美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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桝形を左に曲がり、次の桝形を右折すると虚空蔵堂があり「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

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さらにその先には太田小学校があるが、ここが太田代官所のあった処である。

尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。

美濃加茂市商工観光課」(説明版)

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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代官所跡の隣に「坪内逍遥ゆかりの妙見堂」がある。明治の文豪・坪内逍遥は太田代官所の役人・坪内平之進の末子である。

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この先は、車通りの多い無味乾燥とした国道をひたすら歩くことになる。今日の泊りはJR「美濃太田駅」のすぐそばなのでJR「坂祝駅」から一駅戻り「美濃太田駅」へ。

ビジネス旅館「いろは」は、料金も安く、食事もボリュームがあるので結構込み合っていた。

中山道旅日記 14 大井宿-大湫宿-細久手宿(大黒屋)

25日目(4月18日(月)) 大井宿-大湫宿細久手宿(大黒屋)

今日は、細久手宿まで5里、約20キロ弱の行程ということで午前7時30分の出発とする。旧道に戻り、商店街を行くと左手に「中野村庄屋の家(本酒屋)」がある。説明版が添えられており、以下のように記されている。「中野村庄屋の家で、屋号を本酒屋といいました。文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁し、中山道を通って江戸へ下ることになりました。その準備に中山道の各宿場はおおわらわでした。当時、大湫宿助郷村であった野井村が、和宮が通行するということで岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)につかせられました。このことを不満に感じた野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮の通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。これは後に事件となりましたが、代官による強制的な賄役の負担が野井村の今後の慣例となることをおそれた野井村は、岩村藩相手に裁判に訴えました。最終的には野井村の勝訴となり代官は罷免され、野井村に金25両が下付されました。」

その横に「中野観音堂」があり傍らに中野村高札場跡の碑が立っている。

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永田川に架かる長嶋橋を渡ると国道19号線に出会う。この信号を右折し、国道をしばらく行くと左手に旧道が復活する。旧道に入ると「西行硯水公園」がある。「文治二年(1186)西行は二度目の奥州の旅に伊勢を出発した。鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在した後、木曽路を経てこの地を訪れ、三年暮らしたといわれる。歌人である西行は、多くの歌を詠み、こんこんとわき出るこの泉の水を汲んで、墨をすったと伝えられている。

道の辺に清水ながるる柳かげしばしとてこそ 立ちどまりつれ   西行

 陽炎やここにもふじ見の筇(つえ)の跡   奚花坊

奚花坊(本巣郡)の句は、天保十四年(1843)馬籠新茶屋の芭蕉句碑建立句会に来訪したときに、ここで詠み、地元の弟子に与えたものである。」(恵那市教育委員会による)

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西行硯水公園を後に先へ行くと「西行塚」「中山道・中野村」の碑があり、JRの線路を越えて旧道を行くと「是より西十三峠」の碑が立っていてここからは厳しい峠道である。当時は「十三峠におまけが七つ」といわれ実際には二十の峠があるといわれている。まずは「西行坂①」と呼ばれる坂から十三峠は、始まる。

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西行坂を行くとすぐの細い道を上がれば「伝西行塚」がある。西行は、この大井宿付近で亡くなったといわれている。塚の上の五輪塔室町時代末期のものだそうで、西行法師の供養のために造られたものだそうだ。小高い丘の上は、恵那山の山並みや恵那の市街地が見渡せる展望台になっている。ここには、芭蕉西行の句碑が置かれている。

― 西行のわらじもかかれ松の露 - (芭蕉

- 待たれつる入相のかねの音す也あすもやあらば きかむとす覧 - 西行(新古今和歌集

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街道に戻ろう。石畳の道を上り切ると「西行の森」と呼ばれる公園があり、ここには一里塚が残っている。「槙ヶ根の一里塚」(江戸から八十八番目)である。

「一里塚は、一里(約四キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(十六世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれていたといわれるが、一般的には、慶長九年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要な街道に設けさせ制度化したものをいっている。しかし、百八・九十年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。県内の中山道には、全部で三十三か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など五カ所の合わせて七カ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。

この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.1mある。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。」(恵那市教育委員・会説明版)

西行の森」公園は桜百選にも選ばれており桜の名所である。花の盛りの頃は、多くの人出で賑わうのだろう。

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やがて「槙ヶ根坂②」と呼ばれる緩やかな上り坂を行くと車道に出会うがすぐに再び旧道に入っていくことになる。旧道に入ると「茶屋槙本屋跡」「茶屋水戸屋跡」「茶屋松本屋跡」の小さな杭が立っている。このあたりは、槙ヶ根と呼ばれたところで「槙ヶ根立場」や「伊勢神宮遥拝所」もあり、当時はずいぶん賑わっていたのだろう。

「槙ヶ根立場の茶屋」「伊勢神宮遥拝所」の説明版がある。

槙ヶ根立場の茶屋(説明版)

「江戸時代の末頃ここには榎本屋・水戸屋・東国屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度に変わり、脇道ができ、特に明治三十五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。」

伊勢神宮遥拝所(説明版)

「京都から江戸へ旅をした秋里離島(あきざとりとう)は、その様子を文化二年(1805)に「木曽名所図会」という本に書いた。そしてその挿絵に槙が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。」

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ここは、名古屋道との追分にもなっていて「右西京大坂・左伊勢名古屋道」と刻まれた道標が立っている。「下街道」と書かれた説明版も立っている。

下街道(説明版)

「中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。下街道は、竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。

この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より四里半(約十八キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。」

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そこから先は、下り坂になっており、「祝坂③」の杭が立っている。少し行くと傍らには馬頭観音があり、すぐ先の階段の上に「姫御殿跡」の碑が立っている。説明版には以下のように書かれている。

「ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中仙道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。 そのためお姫様の通行のときなどに、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。文化元年(1804)十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さぎのみや)のご通行のときは、六帖と八帖二間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)十四代将軍徳川家茂のもとへ下向した和宮のご一向は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったといい伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。」

すぐ横に「祝峠」の杭がある。

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五分ほど下ると「首なし地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが祀られており、次のような伝説が残っている。「昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。

 それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」(説明版より抜粋)。

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その先は急な下り坂で「中山道・乱れ坂④」と刻まれた石碑が置かれている。江戸側からは下りだが、京側からの旅人はこの坂を上ってくるのだからどれだけ大変だったか想像に難くない。坂の途中に「下座切場跡」の杭が立っているが、下座切場とは、ここを通行する偉い役人を地元の役人が袴を着て土下座をして迎え入れたのだという。その先には、「乱れ橋」と呼ばれる橋があり、「乱れ橋」と書かれた杭と「乱れ坂と乱れ橋」の説明版が立っている。説明版には「大井宿から大湫宿までの三里半(約14Km)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。このほかに「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつを徴収する有料橋のときもあったという。」と書かれている。

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乱れ橋から5分ほど行くと「うつき原坂(お継原坂)⑤」の杭が立っておりすぐ先に「四つ谷無料休憩所」がある。一休みとしよう。このあたりは、「四つ谷立場」があったところで当時の旅人も一息入れたのだろう。

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さて、休憩所から10分ばかり行くと「かくれ神坂⑥」の杭がありすぐ先に「妻の神」が祀られている。調べてみると、夫婦和合、子宝」の神だそうだ。

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上り坂を上っていくと「中山道・平六坂⑦」と彫られた石碑があり「平六茶屋跡」の杭が立っている。

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平六茶屋跡あたりで上り坂は終わり田園風景が広がる農道を10分ばかり行くと、一里塚が見えてくる。江戸から八十九番目の「紅坂一里塚」である。

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一里塚の先は、石畳になっていてすぐに「うばヶ出茶屋跡」の杭、「ぼたん岩」、「中山道・紅坂⑧」の石碑が置かれている。ほたん岩は、上から見ると大きな牡丹の花びらのように見えるのでそう呼ばれているのだそうだ。

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石畳の下り坂を行くと、右手に「ばが茶屋跡」左手に「馬茶屋跡」杭が立っていて、アスファルトになった下り坂を下っていくと「中山道・黒すくも坂⑨」の石碑が置かれている。

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先へ行くと左手に「佐倉宗五郎碑」、奥に佐倉宗五郎を祀った小さな神社(佐倉宗五郎大明神)や二十二夜塔がある。佐倉宗五郎とはどういう人物か調べてみると「下総印旛郡公津村(現千葉成田市)の名主で佐倉藩領主堀田氏の重税に苦しむ農民のため、将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語が歌舞伎などで上演され広く知られるようになった」とのことであるが、何故ゆえにここにその碑が置かれているかというと、「元禄年間(1700年頃)、岩村藩で農民騒動が起きそうになった時、竹折村庄・屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったが、本人は打ち首になった。この話が佐倉宗五郎事件に似ていることからこの名前で祀ったのではないかと云われる。」

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その向かいに「三社灯篭」があり横の石段の上が「神明神社」で芭蕉の句碑が置かれている。

- 山路来て何やらゆかし寿美連草 - 芭蕉

この句は、芭蕉が大津から京へ至る逢坂山越えの道を歩いている時に詠んだ句で、「のざらし紀行」の中に収められているが、この句を刻んだ句碑が中山道の数か所に置かれている。ここに置かれているわけは「「美濃派」の俳人たちが、松尾芭蕉を「祖師」と称して尊崇し、句碑を建立し、俳聖を偲ぶ縁とした。」のだそうだ。

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芭蕉句碑を過ぎると「よごれ茶屋跡」の杭を右手に見て、永久橋を渡ると県道418号にでる。そのすぐ先を右手に入ると再び旧道で高札場跡、庚申塚があり「恵那市恵那市教育委員会の高札場の説明版に「定め書」の内容が記されている。

 

  定

一、きりしたん宗門ハ年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御褒美として、

   えてれんの訴人    銀五百枚

   いるまんの訴人    銀三百枚

   立帰者の訴人     同   断

   同宿・宗門の訴人   銀百 枚

 右之通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所あらハるゝにおゐては、其所之名主并五人組迄一類共に可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

 

     定

一、火を付ける者をしらハ早々申出へし、若隠置におゐてハ其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出るにおゐてハ其罪ゆるされ、急度御褒美下さるへき事、

一、火を付ける者を見付は、これをとらへ早々申出へし、見のかしにすへからさる事、

一、あやしき者あらハせんさくをとけて、早々御代官・地頭へ召連来るへき事、

一、火事の節、鑓・長刀・刀・脇差等ぬき身にすへからさる事、

一、火事場其外いつれの所にても、金銀諸色ひろひとらは御代官・地頭へ持参すへし、若隠し置他所はらハるゝにおゐてハ、其罪重かるへし、たとひ同類たりといふとも、申出る輩は其罪をゆるされ、御褒美下さるへき事、

 右條々可守之、若於相背む可罪科者也、

  正徳元年五月日

     奉行

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このあたりは、「深萱立場」と呼ばれていた処で、「深萱立場」説明書きには、「深萱立場・立場とは、宿と宿の間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。(恵那市教育委員会)」

その先、右手に「山形屋」と刻まれた石碑が置かれており、さらにその先には東の「下座切場」から西の「ばばが茶屋跡」までの道案内(絵地図)の案内板が立てられている。

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その先の「西坂」と呼ばれる厳しい上り坂を上っていくと「中山道」の碑とともに「馬茶屋跡」お杭、「西坂⑩」の杭が立っている。このあたりから道は石畳になっていて5分歩だ先に「みちじろ坂⑪」、「みちじろ峠」、「ばばが茶屋跡」「茶屋坂⑫」などの杭が立っている。

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このあたりから下り坂になり、坂を下り切ると「中山道」の大きな碑が右手に置かれている。

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先へ行くと、道は二手に分かれていて右手の旧道は上り坂になっている。やがて坂を上り切ると「大久後の向茶屋跡」の白い碑が立っている。標識が小さな杭から白い碑に代わっているのは、恵那市から瑞浪市入って管理する自治体が違うからであろう。茶屋跡を過ぎると「新道坂⑬」の碑があり、さらに5分ほど先に「灰くべ餅茶屋跡」の碑が立っている。

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先へ行くとまだ大きな桜の木がまだ花を残していた。桜の木の下には、ベンチとテーブルが置かれているのでここで昼食をとることにしよう。

ここで一句。

- うす曇り花吹雪舞う峠道 - 

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さくらの花が舞い散るベンチに座り、前に広がるのどかな風景を楽しみながら、握り飯をほおばった後は、再び街道歩きである。

「大久後の観音堂と弘法様」を右手に見て厳しい「権現坂⑭」の先に「鞍骨坂⑮」の上りが続く。

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その先には、「灰焼立場」で「灰焼立場跡」の説明版が立っている。

「立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。太田南畝(蜀山人)が享和二年(1802)に著した『壬戌紀行』に「俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。(瑞浪市)」

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しばらく歩いていくと「吾郎坂⑯」の碑「樫ノ木坂⑰」の石碑が置かれている。石碑には「十三峠の内中山道樫ノ木坂・一里塚を過ぎ、樫ノ木坂を下りて俗に灰焼の吾郎坂と云うを下れば灰焼の立場あり。左に近く見ゆる山は権現のやまなり。しばし立場に輿立てて憩う。 大田南畝(おおたなんぽ) 壬戌紀行(じんじゅつきこう)」と彫られている。(大田南畝は、大坂から江戸へ向かっていたので、向きの表現は逆になる。)大田南畝は、江戸時代の文人狂歌師である。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝は号で別号を蜀山人(しょくさんじん)という。狂名は四方赤良(よもの あから)、「壬戌紀行」は、大坂から木曽路を経て江戸に着くまでの紀行である。

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坂の途中に一里塚が残っている。「権現山の一里塚」で「樫ノ木坂の一里塚」ともよばれ、江戸から九十番目の一里塚である。

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一里塚を後にすると道は再び「巡礼水の坂⑱」と呼ばれる厳しい上り坂になる。ここには「巡礼水と馬頭様」の説明版が立っている。

大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、二十余りの山坂道をいい、中山道の中でも難所の一つでした。十三峠は、大湫宿東端の寺坂から、巡礼水の坂、権現山の一里塚、観音坂を過ぎて恵那市へと続きます。

 この地には、お助け清水・巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には、宝暦七年(1757)銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。 瑞浪市

さらに、「中山道 巡礼水・坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という

 常には さのみ水も出ねど 八月一日には必ず出するという

 むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏しけるが この水飲みて命助かりしより今もかかることありといえり 太田南畝 壬戌紀行」と彫られた石碑が置かれている。

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巡礼水を後に先へ進むと下り坂となり「ぴあいと坂⑲」の碑が立っており、さらに「曽根松坂⑳」の石碑が置かれている。

石碑には、「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四 五町 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という(壬戌紀行より)」と彫られている。

 

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曽根松坂の先に「阿波屋の茶屋跡」の碑と「三十三観音」の祠があり、説明版には以下のように書かれている。

「十三峠の三十三所観音石窟・大湫宿と大井宿の三里半(約十三、五km)は険しい山坂の連続する「十三峠」と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。ここには、道中安全を祈って天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚嶋屋・京屋・甲州屋を始め、奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。 瑞浪市

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三十三観音」の祠から先は下り坂で、坂を下ったところにお地蔵さまが祀られているところから「地蔵坂(観音坂)㉑」と呼ばれているそうである。このお地蔵さまの後ろからは清水が湧き出しているところから「尻冷やし地蔵」と呼ばれている。石碑が置かれていて「中山道尻冷やしの地蔵尊・地蔵坂という坂を上れば右に大きな木ありて地蔵菩薩たたせ給う」と刻まれている。また説明版があり「十三峠尻冷やしの地蔵尊・昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊は、そんな清水に感謝して建てられてものですが、ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることからこんな愛称で親しまれてきました。」と書かれている。

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尻冷やし地蔵尊の先の広い道路を横切り右手の厳しい坂が「しゃれこうべ坂㉒」で坂の途中に「中山道しゃれこうべ坂(八丁坂)」の石碑が置かれており「八丁坂の観音碑」が立っている。石碑には「曲がりまがりて登り下り猶三、四町も 下る坂の名を問えばしゃれこ坂という右の方に南無観世音菩薩という石を建つ向こうに遠く見ゆる山は かの横長岳(恵那山)なり 太田南畝 壬戌紀行」と刻まれている。

そこから5分ばかりで「山之神坂㉓」さらに「童子ヶ根」の碑がある。

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童子ヶ根から数分の所に「寺坂㉔」の石仏群を見ることが出来る。

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石仏群から数分の所に「これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼の餉す 庭に石桶ぐさの盛りなるにも わがやどの花いかがならんとしのばし 道の右に山之神の社あり例の輿より下りて歩む輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という 太田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「是より東 十三峠」の碑、「左 江戸へ九十里半 大湫宿 右 京へ四十三里半」の碑が置かれている。

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長く厳しい峠道であった。いくつもの立場、多数の茶屋がその厳しさを物語っている。立場や茶屋は、当時の旅人の心を慰めたのであろう。尚、表示を頼りにカウントした峠は24であったが一つの坂の呼び名が複数あったり坂の下と上の呼び名が違ったり、また気づかなかったものもあるかもしれないので24の数は、極めて不正確である。

さて、この先は、いよいよ「大湫(おおくて)宿」である。

 

第47宿 大湫(おおくて)宿・本陣1、脇本陣1、旅籠30

(日本橋より91里12町8間 約358.7キロ・大井宿より3里18町 13.75キロ)

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中山道大湫宿」の碑が見事な枝垂れ桜の下に置かれている。碑には「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり 新撰美濃志」と刻まれている。

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江戸時代に入り、中山道が整備された当初は東山道を改良したものが多く大井宿から御嵩宿の間(八里)に宿場はなく旅人はとても難渋していた。従ってその途中に宿場を作る必要があり「大湫宿」と隣の「長久手宿」が設けられたのだそうだ。

さて、宿場に入るとすぐに「大湫公民館」があるがその裏の小学校の校庭が「大湫・本陣」で、街道添いに本陣の説明版が立てられている。

大湫宿本陣跡

大湫宿本陣は現小学々庭にあり間口二十二間(約四十メートル)奥ゆき十五間(約二十七メートル)部屋数二十三畳数二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎でした。

 また 此ノ宮 (享保十六年・1731年)

    眞ノ宮 (寛保元年・1741年)

    五十ノ宮 (寛延二年・1749年)

    登美ノ宮 (天保二年・1831年)

    有 姫 ( 同 年       )

    鋭 姫 (安政五年・1858年)

などの宮姫のほか皇女和ノ宮が十四代将軍徳川家茂へ御降家のため(文久元年・1,861)十月二十八日その道中の一夜をすごされたのもこの本陣です。」(説明版による)

説明版の矢印に沿って坂を上がると「大湫小学校」があり、校庭には和宮の歌碑が置かれている。

「皇女和宮

- 遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり -

- 思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは -」

説明版の奥には、皇女和宮他2体の陶製人形が置かれている。

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すぐ先には、以前は旅籠屋だったが今は無料休憩所になっている「おもだか屋」がある。

厳しい十三峠を越えてきたところなのでここで一息、ありがたい!!

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おもだか屋の隣は、問屋場だったようで今は説明版のみがある。

問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。」(説明版より)

その先には、珍しい「虫籠窓の家」があった。「虫籠窓」は、京町家特有の低い二階にある塗り壁の窓のことで、その形が「むしかご」似ているのでその名が付いたのだそうだ。

京が近いということか。

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そのすぐ先が、「脇本陣・保々家」で説明版も立っている。

「本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。」(説明版)

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続いて「神明神社」があり境内の大杉は、県の天然記念物になっている。

「大湫神明神社の大杉・この大杉は大湫宿のシンボルで宿時代から神明神社の御神木として大切にされてきました。推定樹齢千二百年、まさに樹木の王様といったところで、蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり、木のもとに神明の宮たつ」とあります。」(説明版)

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さらに「大湫宿観音堂」があり説明版も立っている。

大湫宿観音堂・道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂です。現在の建物は、弘化4年(1847)に再建されたものですが、境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができます。」(説明版)

大湫宿観音堂の絵天井・市指定 この絵天井は、虎の絵で著名な岸駒に師事した現恵那郡付知町の画人、三尾静(暁峰)の描いたものです。花鳥草木を主に六十枚描かれており、出来も色彩もうよく百年の歳月を感じさせない逸品です。この大湫観音堂は、宿の大火で類焼して弘化四年(1847)に再建されましたが、難病平癒の霊験があり近郷近在の崇敬を受けています。 瑞浪市教育委員会」(説明版)

ここには、芭蕉句碑も置かれている

- 花盛り山は日ごろのあさぼらけ -

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ここも人通りのまばらな静かな宿場である。

ところで、この「大湫宿」は十返舎一九滑稽本「続膝栗毛・五編下巻」に登場する。「かくて大久手(大湫)の駅ちかくなりければ、此のあたりの宿引きみな女にて、ばらばらと立ちかかり、二人を取り巻き・・・」弥次さん喜多さんが客引き女の声に騙されてここに宿を取る。喜多さんが部屋にきた女を口説こうと、その女が畑を荒らす猪の見張り小屋にいることを聞きつけ、小屋に近づき猪落としの穴に落ちてしまう下りである。ちなみに「東海道中膝栗毛」で江戸から伊勢詣、京、大坂と旅をした弥次喜多が「続膝栗毛」では金毘羅詣、宮嶋(宮島)、中山道木曽路、洗馬宿から松本へかかり善光寺詣、草津温泉へと旅をするのである。

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街道に戻ろう。観音堂から5分ほど行くと「中山道 大湫宿」の碑とともに高札場が復元されている。このあたりは、もう宿場の西の外れである。

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宿場を出ると左手に「紅葉洞の石橋」碑、「小坂の馬頭様」を見ることが出来る。道は、県道と旧道に分かれていて、右の旧道を行くとすぐ先には四阿のある休憩所がある。ここでひと息入れることにしよう。

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休憩所のすぐ先に、「中山道大湫宿 大洞・小坂」と刻まれた碑があり、「大洞の馬頭様」の碑とともに馬頭観音が祀られている。「中山道大湫宿 大洞・小坂」の碑には「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」と刻まれている。

旧道は、すぐに県道に合流するがその先に「大湫の二つ岩」と呼ばれる大きな岩が二つ並んでいて、その間に以下のように刻まれた「中山道二つ岩」の碑が置かれている。

「道の左にたてる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石といふ 高さ二丈ばかり幅は三丈にあまれり また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり いづれもその名の形に似て 石のしましまに松その外の草生ひたり まことに目を驚す見もの也  大田南畝 壬戊紀行」

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二つ岩を過ぎ、5分ほど行くと右手が石畳の旧道で「琵琶峠を中心とする中山道」と刻まれた碑や「琵琶峠の説明版」が立っている。説明版には「琵琶峠の石畳 岐阜県史跡 

中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているため開発されず、よく原形をとどめています。

特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。 岐阜県教育委員会 瑞浪市教育委員会

またすぐ先に「これより坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 長櫃の如きもの 俵の如きもの数を知らず 大田南畝 壬戌紀行より」と刻まれた「中山道・琵琶峠東上り口」の碑が置かれている。

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石畳の道を上っていくと10分程で琵琶峠頂上で、「琵琶峠頂上の馬頭様」の碑と共に馬頭観音が祀られていてその横に「皇女和宮の歌碑」が置かれている。

- 住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび -

わずか16歳の 和宮の深い悲しみが読み取れる歌である。

ところで峠道付近の道幅は、わずかに1メートル程しかない。大行列はどのようにしてこの峠を越えたのであろう。さぞかし難儀なことであったろう。

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峠を下り始めるとすぐに一里塚が見えてくる。江戸から九十一番目の「八瀬沢一里塚」である。「琵琶峠の石畳と一里塚」の説明版には、以下のように書かれている。

「大湫(大久手)宿と細久手宿の間は一里半(約6Km)。琵琶峠は、美濃十六宿で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1Km、古来より中山道の名所の一つです。

 ここにには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(宝暦十三年・1763)東上り口の道標(文化十一年・1814)等の石造物があります。

 なお、「八瀬沢一里塚」はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。 瑞浪市

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一里塚から15分ばかり下ると「中山道・琵琶峠西上り口」の碑が置かれていて、句が三首刻まれている。

- 琵琶峠 足の調子は あわれなり -

- ゆく春の うしろ姿や 琵琶峠 -

- 雲の峯 加えつ 四っの 糸にしき -

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このあたりで「琵琶峠」は終わり、旧道は県道に合流したあたりが「八瀬沢立場」と呼ばれていた処で峠を越えた当時の旅人は、このあたりで一息ついたのであろう。

さて、県道を淡々と県道を歩いていくと1時間ほど歩くと「弁財天の池」が見えてくる。

「山丘上にありながらいつも水をたたえているこの池は、古くから旅人に愛されてきました。大田南畝の「壬戊紀行」にも「小さき池あり杜若(かきつばた)生いしげれり池の中に弁財天の宮あり」と記述され、小島には天保七年(1836)に再建された石祠があります。」と書かれている。

「続膝栗毛」には、それより八瀬沢の弁財天を拝し、琵琶峠にさしかかりて、

- やせ沢に弁財天のあるゆゑか霞ひくなるびわの山坂 -

弥次喜多細久手宿から大湫宿へと歩いている。)とある。

「弁財天の池」から15分ばかり歩くと「男女松の跡」の碑があるがどうゆうものなのかはわからない。

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さらに5分ほどで「奥之田(瑞浪)一里塚」が見えてくる。江戸から九十二番目の一里塚である。説明版が二つあり以下のような説明文が書かれている。

「奥之田一里塚」

「江戸へ92里、京都へ42里という中山道の奥之田一里塚です。一里塚は道の両側に築かれ、高さ4m、直径12mあります。

この一里塚は、ほぼ、完全にもとの姿をとどめています。」

瑞浪一里塚」

中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長九(1604)年から整備が進められ、岐阜県内には三十一箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した四箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。

市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、経10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。 瑞浪市

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一里塚のすぐ先に「三国見晴し台と馬頭様」お碑と共に馬頭観音が祀られている。

その先は「細久手宿」、今日の泊りは「大黒屋」さんである。

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中山道旅日記13 浦和駅-恵那駅 (大井宿)

24日目(4月17日(日)) 浦和-大井宿

朝8時39分浦和駅発、隣の南浦和から武蔵野線、中央線、中央西線を経由して恵那へ。新幹線が北海道まで行き、世の中がせかせかと慌ただしく回っている昨今、これはちょっとした贅沢なことなのかもしれない。ふとそんなことを考えているうち午後5時6分恵那駅に到着。

第46宿 大井宿・本陣1、脇本陣1、旅籠41

(日本橋より87里30町8間 約344.95キロ・中津川宿より2里18町 9.82キロ)

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JR恵那駅から高札場跡あたりまで戻り「街道歩き」を再開することとする。電車の線路をくぐると「南無阿弥陀仏」と彫られた碑が立っており、その先は「五妙坂」と呼ばれる急な下り坂になっている。「中山道五妙坂」の碑とともに「高札場跡」が残っている。説明版があり「高札は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。高札場は村のうち人通りの多い目につきやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。

高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまりに頻繁であったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。そして慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。大井宿の高札場はこの坂の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大型のものであった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものである。)」と書かれている。

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道は、坂を下り横町川を渡ったところで桝形になっていて「延壽院横薬師」で直角に曲がり、その先で再び右に直角に曲がる角が「本陣」跡である。「大井宿は中山道46番目の宿場で、整然とした6箇所の桝形のある独特の町並みをしていました。最盛期には45軒余の旅篭があったといわれています。本陣とは大名や公家、幕府の公用役人などが休泊するところで門構えや玄関、式台があり他の旅篭屋とは大きく違っていました。本陣は各街道の宿場に1軒あるところや2軒あるところなどがありました。本陣が満員の時は本陣に準じた施設である脇本陣に休泊しました。大井宿本陣は、残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えるこの門を今に見ることができます。表門は他の本陣に比べるとやや小ぶりですが、屋根は反りをもたせた瓦葺で破風板や小屋組みの細工や彫刻も丁寧に仕上げられています。門の傍らに立つ松は樹齢300年を越すと思われる老松で幾多の大名や公家の姫君達がこの門をくぐったのを見ていた事でしょう。」(説明版による)

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本陣で右折すると右手に「竹矢来」の民家があり、左手に「大井村庄屋の古山家」がある。「古谷家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒造と商売をしていました。そして享保年間から幕末まで約一五〇年間、大井村の庄屋を勤めた旧家である。屋敷は間口一〇間半(約19m)・奥行三五間(約63m)の敷地の中に、一四畳・一〇畳・八畳の部屋など合計八室、それに土蔵をもち広大な建物であった。今の建物は明治初年に上宿より移築したもので、前面に太い格子をはめ、はねあげ式の大戸が付き、奥座敷には床の間・違い棚・書院・入側廊下のある一〇畳二間が続き、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。」(説明版による)

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宿場町を歩いていくと「宿役人の家(林家)」がある。「林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六〇余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。当家は間口七間半奥行二五間あり、一一・一〇・八・六・四畳などの部屋が一四室もある大型旅籠屋であった。そのうち東側二間は土壁で境をして、土間に続いて式台付の八畳の部屋三室が特別室となっていた。尚宿役人は問屋(最高責任者)・年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)・馬指(馬の指図をする役)・書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送・飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であった。」(説明版による)、左手に「大井宿下問屋場跡」の説明版に「脇本陣高木家跡」の札がかけられている。「大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の二か所にあった。問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足五〇名と馬五〇頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。

 (大井宿助郷村=東野村・正家村・中野村・永田村・姫栗村・毛呂窪村・蛭川村・ほかに恵那郡内七か村)」(説明版による)。

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その先には、「明治天皇大井行在所跡」「行在所お休み処」がある。

「大井村庄屋の古山家」は有料、「行在所お休み処」は無料で入場できるが今日はすでに閉館していた。

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この先、道はまた桝形になっていて角が「いち川」という旅館で「旅籠屋と木賃宿」の説明版が掛っている。「食事付きで泊まるのは旅籠屋だが食事無しの宿泊は木賃宿である。(説明版)今でいうと1泊2食付きと素泊まりの違いである。すぐ先左手が「大井村庄屋古谷家」で「古谷家」の本家で先ほどの資料館になっていたところは、分家ということだろう。正面に「市神神社」があり、そこを直角に曲がと白木番所跡の説明版置かれている。尾張藩の木曽材木の監視の厳しさを改めて思い知らされる。

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桝形を出て阿木川に架かる大井橋を渡ると商店街になっていて「JR恵那駅」の前の広い道路を左折、今日の泊り「シティホテル・ミチ」へ。大井橋の欄干には、「木曽街道六十九次続き絵」の複製が並んでいる。

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中山道旅日記 12 馬籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

23日目(3月26日(土))妻籠宿-落合宿-中津川宿-大井宿

「但馬屋」さんの朝食時間の関係で8時過ぎの出発となった。宿を出てしばらく行くと「車屋坂」の碑とともに「中山道・桝形」の説明版が立っている。桝形は、敵の攻撃を少しでも遅らせるために造られた直角に曲がる道であるが、江戸幕府の政権が安定した後は盗賊対策にも効果的であったと思われる。道路を挟み「中山道馬籠宿 江戸八十二里 京と十二里」の道標が立っており、常夜灯もある。このあたりが馬籠宿の出口であろう。

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歩を進めると、「左・中津新道」の道標がありすぐ先に「丸山の坂」の碑とともに「馬籠城跡」の説明版が立っている。説明版には「この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から500年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。天正12年(1584年)3月、豊臣秀吉徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵300を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。天正12年9月、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615年)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。」と書かれている。

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すぐ先、右手に庚申塔があり、さらに行くと左手に「島崎正樹」の碑が置かれている。正樹は、馬籠宿・本陣第十七代当主で、藤村は正樹の四男である。

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 その先は、下り坂が続き、やがて展望台があり「正岡子規の句碑」が置かれており「桑の実の木曽路出れば稲穂かな」と刻まれている。景色が素晴らしい。

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坂をさらに下っていくと「新茶屋」の集落があり、「芭蕉の句碑」も置かれている。

-送られつ送りつ果ては木曽の秋― その意味を調べてみると「もうこの旅寝もだいぶ日数を重ねたが、その間、ここで人を送りかしこで人々に送られ、というふうに離合送迎を繰り返し、いよいよ木曽の山中に行き暮れることになった。ことに時は万物の凋落の秋であり、思えば惜別の情ひとしお切なるものがある。」という意味だそうだが、そこまで読み解くのは難しい。「句碑」のすぐ先に「是より北 木曽路」の道標が置かれている。

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このあたりが、信濃の国と美濃の国の国境、この先は美濃路である。

中山道美濃路には、東の信濃国境から西の近江国境まで、「落合宿」「中津川宿」「大井宿」「大湫宿」「細久手宿」「御嵩宿」「伏見宿」「太田宿」「鵜沼宿」「加納宿」「河渡宿」「美江寺宿」「赤坂宿」「垂井宿」「関ケ原宿」「今須宿」の16宿がある。このうち落合宿から鵜沼宿までを「東美濃9宿」、加納宿から今須宿までを「西美濃7宿」といい、合わせて「美濃16宿」と呼ぶ。
さて、このあたりは「新茶屋」と呼ばれていた地域である。先の難所、「十曲峠(つづらおれとおげ)」を前にした立場茶屋がこの地に移ったための「新」なのだろうと勝手に解釈している。ここには一里塚(八十一番目・新茶屋の一里塚)があり「一里塚古跡」の碑が置かれており、説明版が添えられている。説明版には「新茶屋の一里塚・一里塚とは慶長九年(一六〇四)二月、徳川秀忠が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。 新茶屋の一里塚は天保~安政時代(一八三〇~一八六〇)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが、今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しまた。」と記されている。

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先は、「十曲峠」と呼ばれる難所で石畳の道が残っている。石畳の入り口には、説明版が立てられており、木曽六十九次の名前も記されている。「落合の石畳」については、次のような説明がなされている。「この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたものです。江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え制度化して、その保護にはたえず注意をはらいましたが、石畳については何も考えた様子がありません。このため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も一時は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。いま往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根のふたつにすぎず、貴重な史跡です。

中山道ができたのは寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明です。文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っています。」

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石畳を出て十曲峠を下り切ると山中薬師として親しまれた医王寺」がある。

医王寺は、嘉永六年(一八五三)の建立で薬師如来行基(ぎょうぎ)の作と伝えられている。医王寺は、虫封じの薬師として、三河鳳来寺御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして広く信仰を集めている。また、この寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐のお告げによる切り傷薬の「狐膏薬」伝説が伝わっている。

山中薬師の狐膏薬伝説

「昔々、山中の医王寺にズイトンさんという和尚がすんでいた。庭掃除をしていたズイトン和尚は、狐が苦しそうにしているのを見つけ抱き上げてみると、その狐の足に大きなとげが刺さっていた。ズイトンさんがそれを抜いてやると、狐は嬉しそうに山の中へ帰っていった。ある晩のこと、狐が訪ねてきて助けてもらったお礼にとよく効く膏薬の作り方を教えてくれた。教わった通りに膏薬を作り、腰に貼ってみると和尚の腰痛はすっかり良くなった。この膏薬は特に傷に効くと評判になり、街道の名物となった。」という。「狐の恩返し」である。医王寺には、県下随一といわれる枝垂れ桜がある。

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さて、先へ進もう。落合川に架かる下桁橋の先に「御嵩道・飯田道」と彫られた道標があり、「白木番所跡・下馬庚申堂跡」の小さな碑が立っている。さらにしばらく行くと「高札場跡」の碑が立っている交差点に出る。「落合宿」の入り口である。

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第44宿 落合宿・本陣1、脇本陣1、旅籠14

(日本橋より84里12町8間 約331.2キロ・馬籠宿より1里五町21間約4.5キロ)

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宿場の入り口は、桝形(東の桝形)に曲がっていて上町・秋葉様の「常夜灯」が残っている。その先、左手に「脇本陣跡」の碑があり、右手が「本陣跡」である。「落合宿本陣は、江戸期から代々井口家が本陣、庄屋、問屋を務めた。化元年(1804)と文化12年(1815)の二度にわたって大火に見舞われ、本陣も焼失したが、3年後の文化15年(1818)に復興された。その際に当家を常宿としていた加賀前田家から門が寄進されたと井口家では伝えている。「上段の間」も、往時を偲ぶ形で保存されている。翌明治14年(1881)の改築の際に、現在のような土蔵造(一部2階建)、桟瓦葺屋根となった。」(中津川市・資料による)

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「本陣」の向かいには「落合宿助け合い大釜」と呼ばれる大釜が展示されており、以下のような説明版が添えられている。「文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしをするため、各家の竃は引きも切らず焚きつづけられたといわれてきました。ここに展示してある「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、容量は1,000リットルを超えます(口径約1.5m)。・・・・」

旧道は、このあたりから下り坂になり坂の途中に「善昌寺」があり「門冠松」と呼ばれる松が街道にせり出している。名前の由来は、創建当時の山門をこの松が覆っていたからだそうだ。ここは、落合宿の西の「桝形」左折すると「右至中仙道中津川町一理」の道標が立っている。

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落合宿を出てしばらく行くと「秋葉神社」があり、その横に「落合五郎の館跡」の碑が立っている。落合五郎は、「中原兼遠」の三男で「木曽義仲」を育てた人物である。木曽義仲の「四天王」のひとりといわれ、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされている。

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先へ行くと、旧道は急な上り坂を上っていくことになるが息が切れるほどの厳しさであった。やがて「東・木曽東京方面 西・美濃京都方面」と彫られた「横手橋」を渡って15分ほど行くと「与板立場跡」の碑が立っている。当時は旅人で賑わったのだろう。

ここには「与板番所」が置かれており木曽檜の流出を監視していたのだそうだ。その先には、「弘法大師三十六番札所」の碑と「地蔵堂」がある。

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与板立場を過ぎると今度は急な下り坂である。坂を下っていくと左手に一里塚がある。「子野の一里塚」呼ばれる八十四番目の一里塚である。

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一里塚を過ぎると右手にあるのが「覚明神社」で、御嶽山で修行をした者が石を打ち鳴らすと鐘の音がしたという「一命石」が置かれている。さらにしばらく行くと庚申塔などが集められている「小野の地蔵堂石仏群」がある。地蔵堂の枝垂れ桜が見事である。

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先へ進み、地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ると国道に出会うが旧道は国道の地下道をくぐって行くことになる。しばらく行くと「中山道上金かいわい」と書かれた説明版があり、さらに5-6分行くと「尾州白木改め番所跡」の碑が立っている。木曽路を過ぎてこんなところまで来ても番所があったとは、木曽檜の監視の厳しさが伺える。

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番所跡を過ぎてしばらく行くと「旭が丘公園」の所に四阿がある。ありがたい!ホット一息である。右手には芭蕉の句碑が説明版とともに立っている。

-山路きて何やらゆかしすみれ草-(芭蕉句碑)

眼下には、中津川宿が広がっている芭蕉の句碑の先の階段を下り、歩道橋を渡れば中津川宿の入り口である。

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第45宿 中津川宿・本陣1、脇本陣1、旅籠29

(日本橋より85里12町8間 約335.14キロ・落合宿より1里 3.92キロ)

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中津川宿は江戸日本橋から数えて四十六番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。本陣は武家が常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊する場を下宿(したやど)といった。本陣が置かれていたところは、中津川宿でも最も高い場所にあり、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は、常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、町々には自身番も置かれていた。桝形はこのために人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿場の中心部が直線的に見通すことができないように造られていた。横町の角を曲がり、下町へ通じる角を曲がるという鉤形の道の造りを桝形という。(中津川宿と桝形 説明版より)

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宿場に入るとすぐのところに「高札場跡」や「常夜灯」などが残っている。

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高札場跡から10分弱の所に創業・元禄年間と伝わる「すや」という栗きんとんで有名な店がある。ここの栗菓子は絶大な人気があり遠くから多くの人がわざわざ買いに来たのだそうだ。ところで、なぜ栗菓子の屋号が「すや」なのか調べてみたところ初代が「酢」の醸造をしていたとのことである。

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商店街になっている旧道を行くと「中山道 中津川宿」「往来庭」の大きな札がかかっている小路がある。ベンチもあるのでここで一休みとする。

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すぐ先に、「本町」の立て札、「本陣跡」の碑が説明版とともに立っている。

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5分ほど先には、脇本陣跡、庄屋跡が並んでいる。

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そのすぐ先が桝形になっており、古い家が並んでいる。

右手に「川上屋(菓子屋)」、「十八屋(間家)」、左手に「天満屋」、「卯建のある家」である。卯建とは「卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。「うだつがあがらない」という言葉は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたもので、富裕者のシンボルであった。・・・・」のだそうだ。

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ところで、午後1時近くになったので昼食といきたいところだがコンビニも食堂らしきものもない。惣菜屋さんに入り、おにぎりはないのかと聞いたところわざわざにぎってくれるというので食料(おにぎりと煮物)を確保することが出来た。

さて、桝形を過ぎて下町を通り抜け、しばらく行くと中津川に架かる中津川橋を渡ることになる。このあたりは、もう宿外れなのだろう。

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緩やかな上り坂を上ると「津島神社」道標、常夜灯があり、そこを左折し「馬頭観音」などが置かれている広い道路を横切ると駒場村と呼ばれる集落があり、「駒場村の高札場跡」の碑が建てられている。すぐ先には「東山道坂本駅 右阿智駅 左大井駅」の新しい道標が置かれている。「中山道駒場村 右大井宿 左中津川宿」の道標も置かれている。

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正面には「小手ノ木坂」の碑があり、「ここから上宿の一里塚にいたる坂道は「こでの木坂」といい、市内の中山道の中でも急峻な道です。・・・・・」と書かれた説明版がある。階段を上ると「右中山道 左苗木道」の道標が置かれている。苗木道は、遠山一万三千石の城へ行く道だそうだ。「こでの木坂 左ひだみち」と彫られた道標が並んでいる。

さらに、身体が一つで頭が二つの珍しい道祖神があり、「双頭一身道祖神」と呼ばれている。

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すぐ先が、「上宿の一里塚」(八十五番目)である。どうやら階段を上って近道をしたようだ。ここは、明治天皇が休息をしたところで記念の碑も立っている。

一里塚跡を過ぎると、国道に出会うが左手前に「小石塚の立場跡」の碑が立っている。当時は、このあたりも立場で賑わっていたのだろう。

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しばらくすると「六地蔵石憧」があり、以下のような説明版が添えられている。

「寺院や墓地の入口に置かれる石佛がこの六地蔵であり、ここでは南へ百米程参道を入った処に大林寺(現中洗井)が寛永十年(1632)に創立しています。この石幢は大林寺の入口として寺の創立二四年後、明暦三年(1657)に造立されています。中山道から寺の分岐点に立てられたのは、その入口としての役割と共に、当時しばしば見舞われていた水害を佛にすがって避けることと、極楽往生を願うものでした。その上中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得ていく為でもありました。・・・・・」その先は、緩やかな下り坂でやがて「千旦林の高札場跡」が残っている。高札場を後に淡々と歩いていくとやがて「三ツ家の一里塚跡」の碑が見える。

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先に進み、広い道路を渡ると「坂本立場跡」の碑が立っている。この立場は、鎌倉時代から栄えていたのだそうだ。坂本坂を下っていくと左手に石仏が集められている。やがて「茄子川村の高札場跡」の碑が立っており、先に「尾州白木改番所跡」がある。説明版には「この番所がいつ設けられたか詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731年)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、これに対応して設けられたものであると思われる。寛政元年(1789年)の「中山道筋道之記」には「番所錦織役所支配」とある。尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材の榑木(くれ)、土居等白木類は牛、馬による駄送の方法がとられていた。木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていた。
これ等の施設は明治4年(1871年)廃藩置県によって廃止された。」とある。

ここでも、尾州藩の木曽五木の抜け荷取り締まりの厳しさをうかがい知ることが出来る。

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番所跡からしばらく歩くと、街道沿いに「明治天皇茄子川御小休所御膳水」の碑が立てられている古民家がある。ここは、「茶屋本陣」でもあった「篠原家」で和宮明治天皇が休憩した部屋や表門などは当時のまま保存されているとのことである。また、遠州秋葉山道」の入り口でもあり「秋葉大権現」と彫られた常夜灯も残っている。

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茶屋本陣跡を過ぎて10分ほど行くと、「中仙道」の碑とともに「茄子川焼き」の説明版が立っている。要約すれば「茄子川焼は天正六年(1587)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉(ゆう)陶器を焼いたのがはじめで、天保三年(1832)広久手の丹羽九右衛門が陶器作りの改良を図り、磁器製造を起こした。茄子川焼が発展したのは弘化二年(1845)篠原利平治が越中富山県)から来た水野粂造と共同で五室の連房式登り窯を築いてからで、人気があったのは陶土になまこ釉をかけて焼成した、独特の風雅な味をつくった奥州の相馬焼に似た「茄子川相馬」であった。」とのこと。その先左手には、「中山道」碑が置かれており、茄子川村と大井宿の境である。

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馬頭観音」、「広久手坂」や「岡瀬坂」の碑も見かけられる。

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先の交差点をこえたところに「永代燈」と「岡瀬沢の永代燈とあきば道」の説明版が立っている。当時は、中山道から秋葉山への道筋でもあり、牛宿などもあってかなり賑わっていたのではないかと想像できる。説明版には、「岡瀬澤の永代燈とあきば道(牛道)・この永代燈は中山道と野道の分岐点で岡瀬沢大組が安心、安全を祈って建立されました。この野道は岡瀬澤から東野へ向かう古い道で途中の坂には「妻神(さいのかみ)」と刻まれた大きな道祖神もあり、岩村から遠州秋葉山(現静岡県秋葉神社)に参詣する道筋にもなり、灯篭には「ひだりあきばみち」と刻まれています。また東野、岩村の方からは村人の普通一般の物資輸送の道であり、これを「うしみち」(中山道へ向かう道のこと)とよんでいました。この「うし」関係の人が休む「うしやど」が岡瀬澤にありました。・・」と書かれている。その先には「中山道 岡瀬澤」と彫られた碑が置かれている。

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濁川に架かる筋違橋を渡ったところに「岡瀬沢と濁川」の説明版がいる。説明版には、

「わたしたちの岡瀬沢は恵那市大井町の東部一帯をしめる農業と住宅の多い地域です。この岡瀬沢が一つの集落として成立したのは江戸時代のはじめ頃といわれています。

それ以来、岡瀬沢を東西につらぬく中山道と、保古山山系から流下する濁川によって、生活と生産を維持し、発展させていました。・・・・」と書かれている。

 

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先へ行くと、庚申塔が置かれていてすぐに公園があり「広重大井宿」のモニュメントや「初蛙広重の絵の峠かな」と彫られた歌碑が置かれている。

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公園で一休みし、街道に戻ると「中山道 犬塚」と彫られた小さな碑があり、「馬坂と犬塚」の説明版が添えられている。「むかしの信濃国の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいた。口ばしは槍のようにとがり、羽根は刃のように鋭く、羽風にあたると災いが起きるといい、里人や旅人のうちで命をうばわれる人が多かった。困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じた。甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子をひきつれてきじを追った。きじは羽音高く飛び立って西の空に姿を消したが、数日ののちにこの坂に追いつめた。しかし、馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまった。そこで里人はこの坂に馬と犬のなきがらを葬ったとう。」(説明版より)先へ行くと、「根津神社」の道標がある。さらに行くと一里塚が見える。これは、「関戸の一里塚」と呼ばれ、「江戸日本橋より八十七里」と刻まれている。

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一里塚を後に先へ行くと、県道401号に合流し、すぐに「長石塔」と呼ばれる石碑がある。やがて「菅原神社」があり県道と別れて階段を下っていくと「中山道大井村内の図」の説明版があり、「馬頭観音」、「寺坂」と彫られた小さな碑とともに「中山道大井宿神町石仏群」が並んでいる。先の電車の線路を越え、橋を渡れば大井宿である。

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今回は、ここまで。JR恵那駅から帰宅。

中山道旅日記 11 妻籠宿-馬籠宿

22日目(3月25日(金))妻籠宿-馬籠宿

今日は、休養日とし妻籠から馬籠まで「馬籠峠越え」の二里(約7.8キロ)の行程を古い町並みを楽しみながらゆっくりと歩くことにする。

第42宿 妻籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠31

(日本橋より81里6町47間 約318.84キロ・三留野宿より1里15町 約5.6キロ)

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妻籠宿は、慶長六年(一六〇一)、江戸幕府によって「宿駅」が定められ、江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降は宿場としての機能を失い、衰退の一途をたどっていたが、昭和43年から歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を蘇らせた。昭和51年には、隣の馬籠とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。電柱なども見えないように工夫されているので、奈良井宿同様江戸時代にタイムスリップしたような町並みは、見事である。

高札場跡まで戻り、宿場を歩くと右手に「元脇本陣」が見えてくる。妻籠脇本陣は、屋号を「奥谷」といい代々「林家」が務めてきた。現在の建物は、木曽五木の禁制が解かれた後の明治10年に総檜造りで建て替えられたものだそうだ。平成13年に国の重要文化財に指定されている。裏の土蔵には、脇本陣関係資料や、藤村文学関係資料が豊富に展示されている。この資料館は、有料だが入場すれば囲炉裏を囲んで妻籠宿の詳しい話を聞くことができる。

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脇本陣の向かいには、妻籠本陣がある。本陣は、代々島崎氏が勤めていた。島崎氏は藤村の姉の実家である。明治20年に最後の当主広助(藤村の実兄)が東京へ出て、建物は取り壊されてしまったが平成7年に江戸時代後期の間取り図を基に忠実に復元されたのがこの建物で往時のままの豪壮な姿を楽しむことができる。

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本陣のすぐ先右手には、「妻籠郵便局」があり、妻籠の郵便資料館になっている。

現在の建物は、昭和53年に復元され、同時に局前のポストも全国で唯一黒いポストが復元された。『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれている。

 

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古い町並みを楽しみながら行くと「桝形」に曲がっていて道順と桝形の説明版が立っている。

説明版には、「ここは桝形 徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際、西国大名の謀反に備え、江戸への侵攻を少しでも遅らせるために設けられたものです。」と記されている。

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桝形を曲がると「上丁子屋」、「下丁子屋」の看板がかかった家がある。「上丁子屋」は、十返舎一九が「続膝栗毛」を書きあげた旅籠屋だそうだ。

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上丁子屋を過ぎると「桝形を経て中町の町並みへ」「中山道 京へ五十四里二十七町二十一間」の道標が立っていて「寺下地区」と呼ばれ、江戸時代そのままといった風景が楽しめる。

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木賃宿の雰囲気をうかがうことが出来る「上嵯峨屋」は有形文化財に指定されている。

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しばらく行くと「尾又(おまた)」「おしゃごじさま」の説明版があり、以下のような説明が記されている。

「尾又(おまた)木曽路中山道)から伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝暦年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

おしゃごじさま 御左口(ミサグチ)神を祀る。古代から土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様と言われている。」(むー、謎の神様か~)

その先には「諸人御宿 八起」の看板が出ている旅籠があり「妻籠宿」の大きな看板が見える。京方面からは、宿場の入り口、江戸方面からは、出口ということであろう。このあたりまで来ると旅籠もまばらである。

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宿場のはずれあたりからは右手に蘭川(あららぎがわ)の流れを見ながら歩く。やがて旧道は、国道256号に出会うが、国道を横切って進むことになる。交差点には、中山道碑「右・志ん道 左・旧道」とともに「馬篭宿6.9k 妻籠0.8k」の道標が立っている。

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しばらく行くと、「飯田道・中山道」の道標があり、飯田道と中山道の分岐点で橋場の追分とも呼ばれ賑わったところである。道標には「中山道 西京五十四里 東京七十八里」と彫られている。

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蘭川を右手にみながら進むと再び国道に出会い、しばらく国道を歩くことになる。

蘭川に架かる大妻橋を渡ると「馬篭宿6.5k 妻籠1.2k」の道標を右手に入ると再び旧道で、「中山道大島村 右・旧道 左・志ん道」の碑が置かれている。

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先へ行くと「明神茶屋」がある。当時の旅人はこのあたりで一息入れたのだろう。

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やがて、「中山道 大妻籠」の灯籠が立っていて大妻籠の入り口である。

妻籠は、妻籠宿の奥座敷で立場として賑わったのだという。「大妻籠」は、「奥妻籠」が訛ったものだそうだ。旧道は、広い道路に出会いさらにしばらく行くと「金剛屋」の屋号を掲げた旅籠がある。その隣は、旅籠屋「波奈屋」である。

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すぐ先に、「大妻籠」の大きな看板があり、「中山道妻籠 右・旧道」の碑を右折し旧道に入ると水車小屋、「近江屋」「つたむらや」などの旅籠屋がある大妻籠集落である。

水車小屋には、きれいなトイレがありとてもありがたい。

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旧道は、再度広い道に出会うが合流地点に庚申塚があり「庚申の日は六十日毎に巡って来るので年内には六回ある。また庚申を「三猿」などであらはし念仏を唱えて徹夜で世間話などして朝になって解散する風習があった。庚申という名称は道祖神と同様仏教伝来のものであるが「猿田彦命」と解しているむきもある。猿田彦は道しるべの神であったという説話で中国渡来の「道祖神説」とを混同して「妻之神」を祀っている(木曽地方は凡そ其類である)。人は誰でも「三尸(さんし)の虫」という霊虫が腹中に住んでいて其の人の悪事や追失を天界に昇って天帝に告げ口するという事が「道教」にあって江戸時代信仰されていた。其処でこの日は寝ずの番で三尸の虫が天界に昇るのを防いだ。是が庚申の祭りの所因である。」と説明版が添えられている。また、このあたりに「大妻籠の一里塚」があったそうだが案内も説明書きもないためどれがそうなのかわからない。写真の右手に見える小山がそうなのだろうか。

広い道を進み、左手に「とうがめ滝 とうがめ澤下り谷を経て馬籠峠へ」の碑が置かれているところを左折、石畳の道が旧道である。

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旧道を行くと、左手に「倉科祖霊社」というお堂がある。「ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、こうした因縁からこの争いも起きたと思われる。」と説明版に記されている。

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しばらく歩くと右手が急な下り坂になっており、下っていくと「男滝」「女滝」という滝がみえる。「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。

 滝に向かって左が男滝、右が女滝である。

滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」と説明版に書かれている。ここは、宮本武蔵の修行の場、またお通との出会いの場である。

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中山道に戻った所は、「滝見茶屋」と呼ばれているようで当時は茶屋があったのだろうが今は残っていない。広い道を少し歩くと右手に旧道入り口があり、旧道をしばらく歩くと「中山道」の道標が置かれている。更にその先に「中山道 一石栃口 左・旧道」の道標もある。

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旧道は、上り坂になり坂を上っていくと「白木番所跡」がある。贄川番所同様、木曽五木の無断伐採を厳しく監視したのであろう。木一本を無断で伐採すれば首が飛ぶ。「木一本首一つ」である。番所跡のすぐ先に「立場茶屋跡」があり、当時は七軒ほど茶屋があったそうである。江戸時代後期に建てられた「いちこく栃茶屋」は今、無料休憩所になっておりお茶をふるまってくれる。中には、若い外国人女性が休んでおり、しばし雑談を楽しんだ。

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立場茶屋跡からしばらく急な上り坂を上ると標高801メートルの馬籠峠である。峠には「正岡子規」の句碑があり、「白雲や青葉若葉の三十里」と彫られている。馬籠峠から国道を歩くとすぐに旧道入り口が見える。ここからは、下り坂で「熊野神社」があり入り口に「明治天皇御膳水碑」が置かれている。

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熊野神社の先に「間の宿・峠」の集落があり、旅籠「桔梗屋」は、昔の面影を残している。集落の出口に「峠之御頭頌徳」の碑が立っている。これは「安政3年、峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が中津川の問屋と運賃の配分を巡って争い牛方が勝利し牛方頭の今井を讃えた碑で藤村の「夜明け前」にも書かれている話である。」

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急な坂を下ると「十返舎一九狂歌」碑が置かれており「渋皮のむけし女は見えねども栗のこわめしここの名物」と彫られている。先へ進み、さらに、10分ばかり「梨子ノ木坂」の石畳を下り切ると水車がある小屋につく。「峠の集落・水車塚の碑・名物栗こわめし」の説明版が立てられている。

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中山道の道標に従って、石段を上がっていくと「馬籠上陣屋跡」に着く。説明版によれば「ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正十二年(1584)に徳川家康豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。故にここを「陣場」と呼ぶようになった。」のだそうだ。

恵那山が綺麗だ。

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「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ」藤村・夜明け前の一説である。

さて、陣場跡から街道に戻り下り坂を行くと旧道は一度、県道に合流する。そして再び右手の旧道に入り「陣場坂」と呼ばれていた坂を上り切れば馬篭宿である。

第43宿 馬籠宿・本陣1、脇本陣1、旅籠18

(日本橋より83里6町47間 約326.7キロ・妻籠宿より2里 約7.8キロ)

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馬籠宿は木曽十一宿の最南端、美濃との国境にあり、江戸・板橋宿から数えて四十三番目の宿駅で、全国でも珍しい「坂に開けた宿場」であった。そのため、それ程大きな宿場町ではなかったが、島崎藤村の小説で一躍有名になり「妻籠宿」とともに江戸時代そのままの素晴らしい景観を保つ観光地となった。ここまで昔の雰囲気を残すことが出来たのは、藤村のおかげと言わざるを得ない。馬籠宿は、水利が悪くまた吹き上げる風が強いことからしばしば大火に見舞われ、とりわけ明治28年と大正4年の大火により江戸時代の民家はことごとく消失してしまったのだそうだ。現在の町並みは、明治になってからのものがほとんどだそうである。

さて、宿場の入り口手前に「高札場」が復元されており、入り口付近の「上但馬屋」の前に「中山道馬籠宿 京・五十二里半 江戸・八十里半」の碑が立っている。また、「中山道 陣場 高札場」の説明版も設置だれている。

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しばらく行くと、右手に「脇本陣資料館」があり、脇本陣の最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元されている。また、明治の大火で消失を免れた貴重な汁器や衣服など興味深い資料が数多く展示されている。

土産に芭蕉、一茶、蕪村、去来の俳句をかるたにした「俳聖かるた」なるものを購入。

脇本陣跡の横には「山口誓子の句碑」が置かれており「街道の坂に熟柿灯を点す」と彫られている。さらに「大黒屋」を挟んで「藤村記念館」=「馬籠宿本陣跡」が観光案内書の向かいにある。ここは、藤村の生家「馬籠本陣・島崎家」があった場所で、中には「夜明け前」の初版本などが展示されているそうだが、すでに閉館時間を過ぎているため中に入ることはできなかった。明日は、早立ちの予定なので入館はあきらめよう。

「大黒屋」は、藤村の初恋の人・おゆうさんの実家である。(「初恋」まだあげ初めし前髪の の彼女である。)ちなみに、おゆうさんは、妻籠脇本陣・林家に嫁いでいる。

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昔そのままの町並みを楽しみながら、今日の泊り「但馬屋」さんへ向かことにする。

「但馬屋」は外国人客で満員、夕食後はご主人が「木曽節」をお客に教えていた。

囲炉裏を囲んで彼らと雑談をしたが「馬籠宿」は外国人に非常に人気のスポットのようである。

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中山道旅日記10 須原宿-野尻宿-三留野宿-妻籠宿

21日目(3月24日(木))須原宿-野尻宿-三留野宿-妻籠

第39宿 須原宿・本陣1、脇本陣1、旅籠35

(日本橋より75里12町24間 約295.89キロ・上松宿より3里9町 約12.8キロ)

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昨日は、疲れていたので素通りしてしまったので宿場の手前まで戻り旧道を歩くことにする。そこには、「左中山道 須原宿へ」の道標や「水舟の里 須原宿」の看板、江戸から七十五番目の「須原の一里塚」がある。

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駅前まで来ると、幸田露伴の文学碑が建てられている。幸田露伴は、須原宿に滞在し「風流仏」を書きあげた。文学碑には「ご覧くだされ是は当所の名誉花漬、今年の夏のあいさつをも越して今降る雪の真最中、色もあせずに居りまする。」と記されている。

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須原宿は、清水がいたる所に湧き出ていて「水舟」(丸太をくりぬいた水汲み場)と呼ばれる水飲み場があちこちに置かれている。

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本陣・木村家と脇本陣・西尾家が向かい合っておりその先左手に水舟と須原宿碑があり、碑には正岡子規の歌-寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出づるほとの空たにもなし-が刻まれている。碑に添えられている立て札には「須原に至りし頃は、夜に入りて空こめたる山霧深く、朧々の月は水汲む人の影を照らし寂寬たる古駅の趣、いう計りなく 静かなるに道の中央には石に囲いし古風の井戸ありて、淡島神社の灯籠其の傍に寂しく立てり。(日本名勝写生紀行)」黄昏せまる山間の宿場町のもの悲しい情景を想像させる文章である。朝8時過ぎの今も人影が全くなく静寂が宿場に広がっている。

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さて、その先には島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台となった「清水(蜂谷)医院跡」があり「聴けます 須原ばねそ よいこれ」なるものがありボタンを押すと「よいこれ」が流れてくる。

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この宿場町は、大火があったにもかかわらず趣のある昔ながらの町並みが残っている。

水舟についての立て札が立っている水汲み場もある。ペットボトルに水をいただいた。

今のようにどこにでも自動販売機があり簡単に水を買うことが出来る時代と違って当時の旅人にとってこのような水場は、本当に有り難い存在だったに違いない。

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宿場を進んで、左手には「三都講」の看板を挙げている古い旅籠「かしわ屋」が残っている。「三都講」とは「御嶽山参拝」の講元(講を作って神仏に詣でたり、祭りに参加したりする信仰者達の世話人)と言われている。

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このあたりが宿場に出口であろう。「桝形」の案内板があり、右手へ下りていくと旧道である。「桝形」に入らずまっすぐ行くと左手に「浄戒山定勝禅師」がある。この寺は桃山時代の建築様式を今に残すもので「山門」「本堂」「庫裡」はどれも重要文化財に指定されている。「鶴亀蓬莱庭園」とよばれる庭園も素晴らしい。

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当時は、「定勝禅師」で行き止まりであったそうだが現在は、県道になっていてそのまま歩いて行ける。ここは、桝形に戻って旧道を行くことにする。

しばらく行くと、「須原宿 右 中山道野尻宿」の道標がある。

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のどかな農道を歩いていくと道は直角に右折し、急な下り坂を下ったところに「天長禅院」がある。特徴のある石仏が入り口に並んでいる。

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天長禅院を出てさらに坂を下っていくと右手にJR大桑駅、左手に大桑役場があるが線路を越えて国道を横切ったところに「弓矢の一里塚」がある。

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旧道に戻って先を進むと国道に合流する。国道を進み再び旧道に入ってJRの線路を渡ってしばらく行くと野尻宿である。「野尻宿 東のはずれ」のも木版が掛っている。

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第40宿 野尻宿・本陣1、脇本陣1、旅籠19

(日本橋より77里6町47間 約303.13キロ・須原宿より1里30町23間 約7.2キロ)

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 宿場に入ってしばらく行くと本陣跡の説明版、明治天皇御小休所跡がありすぐ先に「脇本陣跡」の碑が置かれている。

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その先、JR野尻駅付近は、道が曲がりくねっている。敵を防ぐための「桝形」が随所に設けられており「野尻の七曲り」と呼ばれ、野尻宿の特徴になっている。これは、現在かわらず、わずかに昔の面影を残している。

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もう午後1時を過ぎているが食事をとれるような店はなく、かろうじて小さな店でカップラーメンとパンを買いお湯をもらって野尻駅の待合室で食事とした。

さて、旧道を先にすすむと「西のはずれ」の木版が立てられている。

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 宿場を出てしばらく行くと「下庄郷」と呼ばれる集落に出て「下庄郷の一里塚」があり、その先に「左野尻宿 右三留野宿」の道標が立っている。

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先へ進むと旧道はやがて国道19号に出会うが少し国道を歩き、すぐ先で旧道に入る。少し行くと「八人石の二十三夜様」と呼ばれる石仏群が祀られている。

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旧道を行くと左手にJR十二兼駅があり、駅を越えた国道19号沿いに「十二兼の一里塚」がある。

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旧道は、やがて国道19号ご合流し、そこからは右手に木曽川を見ながら国道を歩くことになる。県道264号と出会ったところで県道(旧道)に入っていく。中央線のトンネルをくぐり下り坂を下っていくとやがて「三留野宿」入り口である。

第41宿 三留野宿・本陣1、脇本陣1、旅籠32

(日本橋より79里27町47間 約313.48キロ・野尻宿より2里21町 約10.1キロ)

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宿場に入り、しばらく行くと「脇本陣」(宮川家)、その右手に「本陣跡」の説明版が立てられている。また、「明治天皇」行在所」碑、「明治天皇御膳水」の説明版さらに「枝垂梅」も残っている。

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先へ行くと「園原先生の碑」があり説明版が添えられている。園原氏の住宅跡で、三留野天神社の神官であった園原氏は「木曽名物記」や「木曽古道記」などを残している人物だそうである。先へ行くと「桃介橋」がある。

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さらに、「和合の枝垂梅」や「馬の水桶」などもある。枝垂梅は、江戸時代、木曽谷有数の酒造家・遠山氏の庭木として愛育されてきた古木で町の天然記念物に指定されている。

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旧道を先に行くと左手に「ふりそで松」右手に「かぶと観音」が見える。

かぶと観音は、木曽義仲が北陸路を京に向かう際、木曽谷の南の抑えとして妻籠城を築き、鬼門の神戸の祠に兜の「八幡座の観音」を祀ったのが始まりと伝えられている。ふりそで松は、義仲が弓を引くのに邪魔になる松を巴御前が袖を振って倒したところからその名がついたと言い伝えられている。

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先へ進むと、一里塚が残っている。「上久保の一里塚」と呼ばれ、日本橋から八十番目の一里塚である。

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先の坂を少し下ると「良寛の歌碑」が置かれている。(良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で歌人漢詩人。)

「木曽路にて -この暮れの もの悲しきに 若草の妻呼びたくて 小牝鹿鳴くも-」。

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その少し先には「くぼはち茶屋」の碑がひっそりと建っている。茶屋碑の後ろに水車小屋が見え、なかなか風情のある眺めである。

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旧道は、この先桧林の坂を上ることになり、坂を上り切ったところに「中山道蛇道」の道標が建てられており、「左下り道 志ん道(新道) 中山道蛇石 右つまご宿」と刻まれている。

少し先には、蛇石があり、「名石 蛇石 中世の中山道はここから沢沿いに上がっていた。元禄16年(1703)道の付け替え工事が行われて妻籠城総堀を通る現在の道となった」と説明版が添えられている。

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さらに先へ行くと、「妻籠城跡」の碑があり、「妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかでないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚右衛門良勝(たかかつ)が籠って徳川家康配下の菅沼・保科らの軍勢を退けている。また慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いのときも、軍勢が入ってここを固めたが、元和二年(一六一六)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・帯曲輪、さらには南木曽岳にのびる妻(さい)の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知られる。」と説明版に書かれている。(木曽義仲が北陸路を京に向かう際、木曽谷の南の抑えとして築いたとされているが・・・・)

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 この先急こう配の坂を下っていくと古い町並みが見えてくる。いよいよ妻籠宿である。

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宿場に入るとすぐに「こいが岩」の碑を見かける。これは、その形が鯉に似ていたところから「鯉岩」とも呼ばれていたが明治時代の地震で頭の部分が落ちて今はただの石にしか見えない。その右手に熊谷家住宅があり、中を見ることが出来る。

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すぐ先の「地蔵橋」を渡ると「口留番所跡」があり江戸時代初期、中山道を行く旅人を監視していたのだという。その先右手に高札場跡、左手に水車小屋がある。

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古い町並みが昔の情緒を醸し出している。

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今日はここまで、旅籠「さかもとや」で旅の疲れを落とそう。

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