奥の細道一人歩き 14 鹿沼宿-文挟宿
13日目(2019年12月24日(火))鹿沼宿-文挟宿
東武・新鹿沼駅から壬生街道(日光西街道)に戻ると道は三叉路になっている。三叉路の真ん中に「二荒山神社」の小さな祠があり「鳥居跡(-とりいど-と読む)」の説明版が添えられている。
史跡・鳥居跡
「奈良時代に勝道大上人が日光開山後、この地に四本の榎を植えたと伝えられ、鎌倉時代に源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居が建てられたと言われている。のち、その跡が地名となって鳥居跡(とりいど)となった。江戸時代の初め、鹿沼宿をつくる際、鳥居跡から分岐造成された新道が今の大通りである。」(説明版)
すぐ先には、この地・蓬莱町の氏神、イザナギ、イザナミを御祭神とした「白山神社」がある。内町通りを数分行くと雲竜寺で、山門を入ると胡麻堂があり、説明版によると縁日の旧一月十六日と七月十六日には随分賑わったのだそうだ。本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代の武将・宇都宮頼綱も崇拝したのだという。
5分ばかり先には「薬王寺」があり山門を入ると徳川三代将軍家光の鎧塔が立て札と共に置かれている。この寺は徳川ゆかりの寺で「薬王寺縁起碑」には次のように書かれている。
「当山は、医王山阿弥陀院薬王寺と称して真言宗智山派の寺院です。
鎌倉時代 亀山天皇の御代 弘長年間(今を去る700余年前)の創立で、御本尊は薬師瑠璃光如来です。伝教大師の御作で、昔時より、霊験あらたかな御本尊として 33年に1度 開扉されます。 江戸時代 後水尾天皇 元和3年(今を去る250有余年前) 僧正俊賀の時、徳川家康公の遺軆を 日光山に移埋する途次、4日間 滞在せられ、また、天海僧正 3代将軍家光公入柩の際も、その止宿となりました。~後略~」
また、境内には、七福神が祀られていて「招福・鹿沼七福神 七難即滅、七福即生」の説明版が添えられている。
少し先の中町屋台公園に「中町屋台会館」があり、見事な彫刻が施された屋台が展示されているそうだが、まだ開館時間前で残念ながら入館はできなかった。
ところが、街道を右へ5分程入った所の中央公園に「彫刻屋台展示館」があり、市の文化財に指定されている見事な彫刻屋台が3台展示されている。
管理人さんの話では、日光東照宮建築に当たり全国から腕のいい彫刻師が集められ、東照宮完成後は一家の次男、三男が東照宮のメンテナンスのため日光近くの町に住みついて彫刻の技術を後世に伝えたのだという。鹿沼の屋台はそういった彫刻師が作り上げたものだそうだ。
屋台展示館の横にある「掬翠園」は、明治末期から大正初期にかけて造営され、当時「鹿沼の三名園」の一つと言われた日本庭園である。庭園内には茶室があり芭蕉の句碑が置かれている。句碑には
- 入あひのかねもきこへすはるのくれ - 風羅坊 と刻まれている。
(入逢の鐘もきこえず春の暮)
「俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の途上、元禄二年(一六八九)鹿沼に1泊した折の吟句とされ、碑銘は芭蕉の真蹟詠草(しんせきえいそう)で、風羅坊は芭蕉の別号でる。」と説明版に記されている。
先へ進むと「今宮神社」がある。社歴によれば延暦元年(782)の創立で日光二荒山神社の分社的性格をもち、日光山鹿沼今宮権現と称した。 天文三年(1535)日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、鹿沼築城と共に現在地に遷し、今宮権現と称して城の鎮守とした。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東平定に伴い壬生氏滅亡後鹿沼宿の氏神となる。 徳川幕府から五十石の朱印地を拝領し、慶長13年(1608)3月今宮権現が現在見られるような優美な権現作りの社殿(県文化財指定)と整備された。
秋祭りには鹿沼の屋台がこの神社に集まり、夕方には町を練り歩くのだそうだ。
今宮神社の前の道を30分ばかり行った雄山寺に「壬生義勇の墓」がある。
鹿沼城主(壬生家五代城主)、壬生上総介義雄(みぶかずさのすけよしたけ)は、豊臣秀吉の小田原を攻めるに際して、北條氏方に味方し、小田原城に入城するため進軍したが、天正十八年(1590)七月八日、酒匂川(さかわがわ)の陣中で、病死した。その後、家臣が当地に建てたのがこの墓である。
街道に戻ってしばらく行くと戸張町に星宮神社がある。この神社は、古くから「虚空蔵尊(こくぞうさん)」として親しまれているこの土地の氏神である。本殿は一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり:日本の社殿造り様式の一つ)で、本殿全体にはめこまれている彫刻は総欅(けやき)造りで見事なものである。(説明版から引用)
星宮神社の交差点を右に入ってしばらく行くと右手に「川上澄夫美術館」がある。有名な「初夏の風」は、今は冬なので展示していないとのこと。タイトルの通り夏だけの展示だそうだ。(残念)
先へ進もう。街道に戻りしばらく行くと「延命 塩なめ地蔵」の看板が目に入る塩をそなえて願をかけるのだろうか。
街道を進むと黒川に架かる「御成橋」を渡ることになる。例幣使街道は「お成り道」ともいうがこの橋もそこから名づけられたのだろう。
御成橋を渡り切ると左手に成田山参道と書かれた標柱が立っている。階段を上ると不動尊が祀られている。「下野の国 成田不動尊」である。
先へ進むと左手にうっすらと雪化粧をした「男体山」が見える。
30分ばかり歩くと杉並木が始まる。「日光杉並木街道」と刻まれた石碑に説明版が添えられている。
「並木寄進碑 今市市小倉 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。並木の起点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口(日光街道)同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4カ所に立っている。この碑は日光神領の境界に立てられているので境石と呼ばれている。」(説明版)
遊歩道を30分ほど歩くと道路を挟んだ反対側に「小倉の一里塚」がある。江戸・日本橋から29番目の一里塚である。
更に15分程行くとJR文挟駅である。
芭蕉は鹿沼宿に宿泊している。随行者の曽良は鹿沼から鉢石(東照宮手前の宿場)までの行程を曽良日記に次のように書いている。
「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(より火バサミ(文バサミ)ヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ)
1日の行程を曽良日記から計算すると八里、32キロということになる。こちらは1日に20キロも歩ければいいところなのだが・・・・。
今日はここまで。文挟から宇都宮経由で帰宅。