奥の細道一人歩き 16 日光

15日目(2020年1月9日(木))日光

今日も前回と同じ6時5分浦和発の宇都宮線に乗り日光線に乗り継いで日光へ、日光着が8時23分。隣の東武日光駅の前は土産物屋などもありJRの駅よりも華やいでいる。

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今日1日、奥の細道序盤のクライマックス日光で世界遺産の社寺や芭蕉の足跡を辿る。

ところで、日光の地名は二荒山(ふたらさん)(男体山の別名)の「二荒」を「にこう」と読んだのが始まりだという。

奥の細道には、「往昔(そのかみ)此の御山を二荒山と書きしを、空海大師の開基の時日光と改め給う。」と書かれている。

さて、日本有数の観光地らしくきれいに整備されたゆるやかな上り坂の道路を歩いていくと日光彫、日光ゆばの店や洒落たカフェなどが左右に並んでいる。

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30分ばかり歩くと「上鉢石町」のバ ス停があるが、芭蕉曾良は、日光鉢石の佛五左衛門方に泊まっている。曽良日記には「其の夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。」と書かれている。鉢石は、日光社寺の門前町で当時から賑わっていたのだろう。

                                     「奥の細道

                                 五 佛五左衛門

「卅日(みそか)、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云、萬正直(よろずしょうじき)を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。」

(三十日(三月)、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直を第一としていますので、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言う。いったいどんな種類の仏がこの濁り穢れた世に御姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに気を付けて見ていると、なまじっかな知恵や世俗的な分別はなく、正直一途な者なのだ。論語にある「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し(まっすぐで勇敢で質実な人が仁に近い)」という言葉を体現しているような人物だ。生まれつきもっている(気稟(きひん))、清らかな性質(清質)なのだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。)

ものの本によれば、元禄二年の三月は小の月(二十九日まで)で三十日はないはずである。芭蕉がなぜ丗日と書いたかについて学者や専門家達がいろんな説を唱えているが真意のほどは定かではない。芭蕉宿泊の遺跡がどこかにないか探してみたが見当たらない。誰かに聞いて帰りにもう一度探してみることにする。

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5分程で神橋である。天海僧正銅像が立っている。

天海大僧正 天海は比叡山天台宗の奥義をきわめたあと、徳川家康に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。」(説明版より)

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信号を渡ると左手に参道があり、参道を登ると輪王寺・三仏堂の裏手に出る。

輪王寺

日光山は天平神護二年(766)に勝道上人(しょうどうじょうにん)により開山された。 以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられている。東照宮が元和三年(1617)の創建であるから輪王寺東照宮より850年も前に立てられたことになる。歴史の重さを感じる。

輪王寺・三仏堂の横には輪王寺護摩堂がある。ここは日光山随一の護摩祈願所である。毎日7時30分、11時、14時の3回護摩祈願が行われている。

参道を挟んだ向かい側には輪王寺本坊・日光さん輪王寺門跡がある。

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さて、東照宮、さぞかし観光客で混みあっているのだろうと思っていたが平日の早朝に加えて正月明けとあって海外からの観光客も少なく、人影もまばらである。拝観券はSUICAで購入、ここでもキャッシュレス。

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日光東照宮の建物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されている。

石鳥居(いしどりい)(重要文化財

元和4年(1618)、九州筑前藩主黒田長政によって奉納された。

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表門(おもてもん)(重要文化財

東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれている。

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陽明門(ようめいもん)(国宝)

日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられている。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。

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廊(かいろう)(国宝)

陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られている。いずれも一枚板の透かし彫りに極彩色がほどこされている。

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五重塔(ごじゅうのとう)(重要文化財

慶安3年(1650)若狭の国(福井県小浜藩酒井忠勝によって奉納された。文化12年火災にあったが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進によって再建された。

神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)(重要文化財

神厩舎は、神馬をつなぐ厩(うまや)である。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻は有名。

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三神庫(さんじんこ)(重要文化財

上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められている。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされている。

唐門(からもん)(国宝)

全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている。

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神輿舎(しんよしゃ)(重要文化財

春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる三基の神輿(みこし)が納められている。

祈祷殿(きとうでん)(重要文化財

祈祷が行われる。

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眠り猫(ねむりねこ)(国宝)

左甚五郎作と伝えられている。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われている。

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門をくぐって急な階段を上って行くと奥宮である。

奥宮(おくみや)(重要文化財

拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神(徳川家康)のお墓所である。

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東照宮は、徳川幕府の権力と財力の象徴と言っても過言ではない。

東照宮を後に輪王寺と反対側へ歩いていくと「二荒山神社」である。

二荒山神社

霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735~817)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。

二荒山神社は古来より修験道霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産重要文化財指定の主な社殿が造営された。

社名は、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする

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二荒山神社のすぐ奥には、徳川三代将軍・家光を祀った大猷院(たいゆういん)がある。

本殿への最初の門仁王門には金剛力士像が祀られている。

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次に「二天門」をくぐる。実に見事な装飾で当時の装飾技術の高さが感じられる。

正面の「大猷院」の文字は、後水尾天皇の筆によるものだという。

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次の「夜叉門」へ行く途中に「展望書」説明版があり「ここからのながめは、天上界から下界(人間の住む世界)を見下ろした風景を想像させます。」と書かれている。

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階段を上ると「夜叉門」である。

東西南北を毘陀羅(びだら)、阿跋摩羅(あばつまら)、鍵陀羅(けんだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)といった武器を持った色彩あざやかな夜叉が門を守っているところから、夜叉門とよばれる。牡丹の花が多く装飾されているところから牡丹門ともよばれる。

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そして「唐門」、大猷院の門のなかでは最も小さく、二脚門形式で金地板への浮彫や透彫金具などの装飾が施されている。

 

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大猷院は、家康の東照宮より目立たないようにとの家光の遺言により色の数を抑えて作られた。それが返って東照宮より落ち着きのある、おごそかな上品さを感じさせる。

大猷院を後に街道に戻る途中に勝道上人の像がそびえている。

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                                               奥の細道

                                             六 日光

「卯月遡日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝す。往昔(そのかみ)、此御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵 の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

四月一日、日光の御山に参詣した。昔この御山を「二荒山(にこうざん)」と書いたが、空海大師がここに寺を創建した時、「日光」と改められた。

それは千年先のことまでも見通してのことだろうか、今やこの日光東照宮の威光は広く天下に輝き、恵は国のすみずみまで行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに暮らすことができる。なお、書くべきことはあるが、畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。

- あらたふと青葉若葉の日の光 -

黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。

- 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曽良

曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁(あかつき)髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。

黒髪山は春霞がかかっているのに、雪がいまだに白く残っている。

- 剃捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ) - 曾良

曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。

今回、松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜びとし、また私の旅の苦労を慰めようということで、出発の日の早朝、髪をおろして墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」とした。そういうわけで、この黒髪山の句は詠んだのである。「衣更」の二字には、いかにも力がこもっているようにおもわれる。)

先ほどは素通りした神橋に戻りしばし休憩。

神橋

勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれている。

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傍らには与謝蕪村の句碑が置かれている。碑には

- 二荒や紅葉の中の朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)- 

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芭蕉東照宮参詣の後裏見ノ滝を訪れている。芭蕉の跡をたどって国道を正面に男体山を見ながら中禅寺湖方面へ向かって歩く。

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30分程度行った「裏見の滝入口」のバス停の所から右へ県道195号が裏見の滝に向かってのびている。「裏見ノ滝2.5キロ」の標識が立っている。30分程歩くと道は急な遊歩道になり、遊歩道の先が裏見ノ滝である。

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昨年の台風19号で観滝台が壊れ、修理の最中で立ち入り禁止になっていた。

手前の橋から滝を見るしかない。

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廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也。

- 暫時(しばらく)は滝にこもるや夏の初(げのはじめ) -

(二十余丁山路を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。

岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。

- 暫時は滝に籠るや夏の初 -)

裏見ノ滝を後に国道に戻り安良沢小学校入口の坂を下ると「安良沢小学校」があり、校庭に芭蕉の句碑が置かれている。

- しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め -

と刻まれている。

「      松尾芭蕉句碑 四 

 しばらくは 滝にこもるや 夏の初 芭蕉翁 おくの細道 うらみのたき 吟

松尾芭蕉は、江戸前期の俳人伊賀上野の生まれ。名は、宗房。

桃青・泊船堂・釣具庵・風羅坊などの号を持つ。

元禄二年(一六八九年)日光浦見の滝へ立ち寄った時の句。「夏」とは、夏行・夏安居・夏籠などの略で、僧の修行のことをいう。碑は、小杉放菴の書で、昭和31年5月安良沢小学校創立記念に日光市と関係町内が建立。 日光市」と書かれた説明版が添えられている。

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更に坂を下ると「大日堂跡」の標柱が立っている。坂を下りると大日堂跡がある。

大日堂跡は輪王寺の飛び地境内で池のある美しい庭園であった。 

「    大日堂跡

往古は、この周辺を菩提が原(ぼだいがはら)と称し、大日如来の堂があった。慶安二年(一六四九)、大楽院の恵海がこれを再建。美しい池のある庭園の中に堂があり大日如来の石像が安置されていた。明治三五年九月の大洪水で総て流され現在は堂跡にいくつかの礎石を残すのみとなった。」(説明版)今は地蔵群を残すだけとなっている。

地蔵郡の一段下には芭蕉の句碑などが置かれている。

松尾芭蕉句碑 三

- あらとうと 青葉若葉の日の光里 -

大日堂詩碑

―^日の恵 そのほとほとの 花こころ - 東郷多知羅

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大谷川に架かるつり橋・大日橋を渡り、道標に従って大日川の渓谷・憾満ヶ淵(かんまんがふち)へ。

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10分程あるくと赤い帽子を被ったかぶったお地蔵様がずらりと並んでいる。憾満ヶ淵の並び地蔵である。

並び地蔵(化け地蔵)

慈眼大師天海(じげんたいしてんかい)の弟子100名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので列座の奥には親地蔵が置かれていた。霊庇閣(れいひかく)に一番近いやや大きめの石地蔵は「カンマン」の梵字を書いた山順僧正が奉納したものである。」(説明版より)

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憾満ヶ淵(かんまんがふち)

男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で古くから不動明王が現れる霊地といわれている。川の流れが不動明王真言を唱えるように響くので晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り、憾満ヶ淵と名付けたと言う。晃海大僧正は、この地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像を建立した。往時は参詣や行楽の人で賑わった。元禄二年(1689)、俳聖「松尾芭蕉」も奥の細道行脚の途中に立ち寄っている。太谷川の対岸にある巨石の上にはかつて2メートルの不動明王の石像が置かれていたが、明治35年(1902)9月の洪水で流失した。」(説明版より)

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霊庇閣(れいひかく)

承応3年(1654)、慈雲寺総創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇。

対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈って胡麻供養を行った場所である。

明治35年(1902)9月の洪水で流失した。その台座となっていた巨岩には「カンマン」の梵字が彫られていることが今も見ることができる。現在の「霊庇閣」は、昭和46年(1971)輪王寺により再建された。(説明版より)

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慈雲寺(じうんじ)

応3年(1654)、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海を祀ったお堂。明治35年(1902)9月の洪水で流失した。現在の本堂は、昭和48年(1973)に復元された。

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憾満ヶ淵に別れを告げ日光街道に戻る。芭蕉一宿の碑についてみやげ物店の店主、輪王寺護摩堂の御朱印受付の女性などに聞いてみたが誰も知らないという。最後に日光観光協会で聞いてみたら、たった一人詳しく知っている人がいた。その人の話では個人宅の敷地内に句碑が置かれているという。芭蕉たちが泊まったのもそのお宅で当時は旅人宿を営んでいたそうだ。ご主人の了解を得て写真を撮らせていただくことにした。ご主人の話では「佛五左衛門」に関する資料は何も残っていないのだそうだ。

碑は二つあり、新しい碑は、芭蕉300年を記念して拓本を基に文字を1.5倍に拡大したものだそうだ。屋根付きの碑がオリジナル。説明版が添えられている。

「    松尾芭蕉句碑 一

日光山に詣 芭蕉桃青

 あらたうと 木の下闇も 日の光

此の真蹟大日堂の碑と異同ありて意味深長なりよって

今茲(こんじ)に彫り付けて諸君の高評をまつ 高野道文識

高野家は旧家で、道文氏は11代目、明治2年死去。奥の細道芭蕉が日光に来たときの句は、大日堂にある句碑の句だが、それと異なる句があるのに気付いた道文氏が不思議に思い、碑に刻んで残したものと思われる。芭蕉は日光の句を何回も推敲しており、その一つを手に入れたものであろう。 日光市」(説明版)

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「ふじや」さんで、湯葉をみやげに買って帰宅。

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日光線に乗るのも今日が最後になるだろう。

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